元体育教師の教授がヒャダインさんに反論?
前号に引き続き、SNSで話題になった音楽プロデューサーのヒャダインさんが、体育専門誌『体育科教育』(大修館書店)に寄稿したエッセイを取り上げます。
「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」
というセンセーショナルなフレーズから始まる文章で、旧来の体育の授業のあり方に一石を投じています。
このエッセイが掲載されたのは『体育科教育』2019年3月号です。2024年12月にXで紹介されたことで、改めて注目されました。すると、2025年2月号『体育科教育』の巻頭に、「緊急企画」としてこのような文章が掲載されたのです。
タイトルは、「『僕は体育の授業が大嫌いです』ヒャダインさんのエッセイに対して体育教師が考えること:Xでの反響を受けて」。
「これは読まねば!」と衝動にかられた私は、早速『体育科教育』を取り寄せてました。
この文章を書いたのは、和光大学教授の制野俊弘さん。ご自身も中学校の体育教師としての経験があり、大学で体育教師を目指す学生の指導をされています。まさに体育教師のリーダー的存在の制野さんが、ヒャダインさんのエッセイに対してどのような反論をするのか。私はドキドキしながらページをめくりました。
体育教師を目指す学生が書いた「ヒャダインさんへの手紙」
すると驚くことに、制野さんは文頭で
「これまで多くの体育嫌いを生み出してきた体育教師の1人として、まずは平身低頭で謝罪させていただきます」
と謝っているのです。さらに、
「体育の授業は人間形成において学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要や役割をどのへんに秘めているのであろうか」
という、ちびまる子ちゃんのセリフを引用して、
体育という教科を「私たちはどう自分事として引き受けていくのか」と自問しています。
これが体育教師の卵の本音!?
制野さんは、大学の保健体育科教育法の授業でヒャダインさんの記事などを取り上げ、学生たちに「ヒャダインさんへの手紙」を書かせているとのこと。
学生たちは、
「体育が嫌いなのは恥をかかされるからというのは、本当にその通りだと思います」と理解を示しながらも、
「嫌いでもやってみたい、楽しそうだから少し参加してみたいと思えるような場づくりから授業を始めるべき」とか、
「クラスのみんなで授業を行う意味をもっと考えてほしい」とか、
制野さんいわく
「結局は、無邪気な『体育擁護論」に行き着く」のだそうです。
人の価値観は、そう簡単には変わりません。虚しさを漂わせている制野さんに、私はひどく共感を覚えます。
制野さんは、「教科としての体育は本当に必要なのですか。体育は何を教え育てる教科なのですか」と疑問を呈し、
「それを考え抜くことが生涯を懸けた問いであると肝に銘じたい」
と文章を締めくくっています。
学校でも会社でも、唯一絶対の「教育」方法に正解はありません。みんなが正しいと信じていた価値観も、時代とともに変わっていきます。だからこそ、現状に疑問を持ち、考えることを諦めないことが大事なのではないでしょうか?
しごかれなくてもプロになれる。
厳しいスパルタ的指導が想像されるスポーツの世界の指導のありかたはどうでしょうか?2024年に開催されたパリオリンピックでは、ブレイキン、スケートボードといった新しい種目で、10代、20代の日本選手たちが続々とメダルを獲得しました。
想像ですが10代の彼らは、昭和の「しごき」文化を知りません。「しごき」がなくても世界の一流になれることを証明しています。近年、頭角を現しているアスリートの周りには、たくさんの優秀なサポートチームがついています。
コーチング、メンタルトレーニング、メンテナンス、栄養士、チームドクターなど、それぞれの分野の専門家が、デジタル技術を駆使してサポートしているようです。それぞれの役割が明確であり、しかも適切な距離がある。高校野球の世界も昭和の頃とは様変わり。企業でも、社員の育成に「AIによるサポート」が導入されているところもあります。
従来のように「上から下への指導」「いいからやれ」的な一方的な指導はなく、対等な立場で本人の目標や、やりたいことをサポートする。
組織である以上、仕事において上から下への指示が行われるのは自然なことです。
しかし、育成という観点においては、「指導する」よりも「支援する」スタンスの方が、より高い成果を生むことが明らかになってきました。これは、社員育成の新しいスタンダードとして、もはや疑う余地のない発想の転換です。
にもかかわらず、少子化や若手の早期離職、管理職志向の低下、さらには70代・80代の部下の存在といった現実がありながらも、日本の多くの組織は、育成の在り方を大胆に見直す決断ができずにいます。その動きの鈍さには、歯がゆささえ感じます。
これからの時代、私たち一人ひとりが「育成とは何か」を真剣に見つめ直し、未来志向で人に投資できるかどうかが、組織に本気で問われています。
それは働きやすい職場、つまり、パワハラのない職場をつくる覚悟が本気であるかどうか。
その鍵は、私たち一人ひとりの手に委ねられているのです。
※引用はすべて『体育科教育』2025年2月号より