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ヤンキーの恋愛番組に、パワハラ上司の正体を見た

それぞれに、過去がある。
後悔がある。傷がある。
そんな男女が沖縄に集まり、14日間を共にする。
Netflixの恋愛リアリティシリーズ『ラヴ上等』シーズン2である。
番組そのものも面白かったのだが、私がさらに興味を引かれたのは、
その後にYouTubeで観た一本の解説動画だった。

犯罪心理学者の出口保行さんと婚活アドバイザーの植草美幸さんが、
『ラヴ上等』シーズン2で起きた出来事を、それぞれの専門家の視点から
読み解いていた。
それを観ていて、私は思った。

ここで語られている人間の心理は、パワハラが生まれる職場のメカニズムと、
驚くほどよく似ている。

「ナメられたら終わり」という世界観

ヤンキーの世界では、「メンツ」が重要になる。
ナメられたくない。引いたら負け。
だから、些細な一言に火がつくことがある。
言葉の中身だけではない。
「誰が、誰に、どの場で言ったか」に反応する。

これ、どこかで見た光景ではないか。

会議で部下が、上司の案に異を唱える。
内容はまっとう。むしろ正しい。
それでも上司は顔色を変える。
「お前、誰に向かって言ってるんだ」
怒っているのは、意見の中身にではない。
部下に意見されたという「構図」にである。
服装が変わり、職場という場所に移っても、同じようなことは起こる。

「総長」という立場が、例えば「部長」に変わっただけで、
上下関係へのこだわりが残っていることはないだろうか。

怒りの奥にあるもの

パワハラ行為者と面談すると、こんな言葉を耳にすることがある。
「ナメられたら、組織は回らない」
一見、勇ましい言葉である。
だが、その奥には別の感情が隠れていることもある。

ナメられることへの恐れである。
立場を失う恐れ。
能力を見透かされる恐れ。
若手に追い抜かれる恐れ。
そうした不安が、威圧という形で現れることがある。

だから私は研修で、怒りそのものだけを見るのではなく、
その手前を考えてもらう。
「あなたは、そのとき何を守ろうとしたのか」
ここに目を向けると、怒りの景色が変わってくる。

過去の人間関係は、その後にも持ち込まれる

YouTubeの解説で、もう一つ印象に残った話がある。
DV被害の経験が、その後の恋愛に与える影響についてである。
DVの被害を受けることで自尊心が低下し、何か問題が起きたときに
「自分が悪い」と考えやすくなる。
そして、相手の機嫌を損ねないように振る舞うことがある、という話だった。

出口さんは、これまで多くの非行少年や犯罪者を分析してきた経験から、
家庭の問題の影響についても語っていた。
もちろん、家庭環境や過去の傷があるから、将来パワハラをするという
話ではない。
私が興味を持ったのは、もっと別のところである。

人は、過去の人間関係の中で身につけた「生き方」を、その後の人間関係
にも持ち込むことがある。

これは職場でも同じではないだろうか。
特に、昭和の薫陶を受けてきた世代には、どこか見覚えがないだろうか。

「上司の言うことは絶対」
「口答えするな」
「若いうちは黙って言われたことをやれ」
「仕事は見て盗め」
「怒られて一人前になる」
自分もそうやって育てられた。
そして、それで仕事を覚え、管理職になった。

だから今度は、自分が部下に同じことをする。
「俺たちの頃は、もっと厳しかった」
「これくらいでへこたれてどうする」
本人にとって、それは必ずしも「攻撃」ではない。
むしろ、自分を成長させてくれた「正しい指導」だと思っていることさえある。

ここに、パワハラ防止の難しさがある。

過去に適応するために身につけた価値観が、立場と時代が変わったとき、
今度は誰かを追い詰めるものになることがある。

だから、「パワハラをしてはいけません」と教えるだけでは変わらない。

「あなたは、どんな上司のもとで働いてきたのか」
「そこで、何を当たり前だと学んだのか」
「その当たり前は、今の部下にも本当に必要なのか」

そこまで振り返る必要があるのだと思う。

沈黙は、同意ではない

そして、この構造にはもう一方の側がある。
強い叱責を受け続ければ、部下の側も学習する。

意見すれば不機嫌になる。
反論すれば、さらに叱られる。
人前で否定される。

だったら、何も言わないほうがいい。
口を開くたびに損をする、と。
そして職場から異論が消えていく。
上司は誤解する。
「うちのチームはうまくいっている。誰も文句を言わない」
しかし、沈黙は同意とは限らない。
言いたいことがないのではなく、言っても無駄だと学習した結果かもしれない。

「これくらいなら」が、境界線をずらしていく

そしてYouTubeの解説で、私が最も興味を引かれたのが「モラルスリップ」
という話だった。
番組では、お酒を飲んではいけないルールの場面で、
「ちょっとくらいなら」
「これくらいならわからないだろう」
とルールを破ってしまう場面が取り上げられていた。

小さな逸脱が許される。
何も起こらない。
すると、次はもう少し先まで行く。

このメカニズムを見た瞬間、私はパワハラと同じだと思った。
「これくらい叱っても大丈夫だろう」
「この程度なら指導の範囲だろう」
「自分も昔、同じように指導された」

最初は、少しきつい口調。
次は、皆の前での叱責。
さらに、人格に踏み込むような一言。
少しずつ境界線がずれていく。

これは、ハラスメントだけの話ではない。
例えば、会社のお金に手をつける不正もそうかもしれない。
「この程度ならバレないだろう」
「あとで戻せばいい」
「今回だけなら」
行為の種類はまったく違う。
しかし、メカニズムを見るとよく似ている。
「これくらいなら大丈夫」という小さな自己正当化が、
次の「これくらい」を生んでいく。
だから私は、重大なハラスメントだけを見ていてはいけないと思う。
その前に、必ず小さな境界線のズレが起きていないだろうか。

裁かれるべきは、本人だけか

ここで、人事・コンプライアンス部門に問いたい。
事案が起きる。
行為者を処分する。
研修を受けさせる。
それで、再発防止になったと言えるのか。
なぜ、誰も止めなかったのか。
なぜ、上司の上司は気づかなかったのか。
なぜ、「数字を出しているから」で済まされてきたのか。
成果を上げる管理職の暴言を、組織が黙認する。

これは黙認ではない。承認である。

「その程度なら構わない」という、組織からのお墨付きになるからだ。
問われているのは、組織が「人」と「数字」のどちらを優先しているかである。

「多少問題があっても、数字を出しているから」

この一言を組織が許した瞬間、管理職は学習する。
結果さえ出せば、このやり方は許される、と。
問題の管理職だけを切り離して処分しても、土壌が残れば、
別の誰かが同じことを始める。

行為者だけの問題に見えて、実は、その行動を許してきた
組織の問題でもある。

不良たちは、正直である

『ラヴ上等』の参加者たちは、感情をむき出しにする。
ぶつかり、怒り、ときには泣く。
見方によっては、誠実ですらある。
職場のハラスメントは違う。
スーツを着て、敬語の衣をまとい、「指導」という
名札をつけてやってくる。

だから見えにくい。だから厄介なのである。
人を見るだけでは足りない。

その人が、どんな価値観を身につけてきたのかを見る。

その人を許してきた職場を見る。

その職場をつくった組織を見る。
「あの人は、ああいう人だから」
「昔から厳しい人だから」
「数字を出しているから」

そう言って目を逸らした瞬間、組織は次の「これくらいなら」を
許すことになる。

あなたの職場では、その小さな違和感に誰が気づき、誰が声を上げ、
誰が止めることになっているだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、 
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

「懐かしがっている場合ではない」-映画『ファーストボイス 前代未聞の逆転裁判』 最後の一文に突きつけられたもの

映画『ファーストボイス 』を観た。

映画の感想は、ほかの人に任せる。私は、映画の中身は語らない。
語りたいのは、エンドロール直前のたった一文だけだ。
描かれるのは1989年。

会社の中のセクハラと、それを当たり前とする男たちの意識。
この時代の裁判を、私はこれまで文章でしか知らなかった。
それが初めて立体になった。物語はフィクションだが、現実とほぼ重なる。
映画として、面白かった。

面白かった。だから油断した

最後に、スクリーンに一文が浮かんだ。
今も、セクハラは止まっていない。

正確な文言は覚えていない。だが、そういう趣旨だった。
それで十分だった。

一気に現実に引き戻された。37年前と変わらない。その事実を、
真正面から突きつけられたのである。

誰も振り返らない一文

観終わってから、ネットの感想を読み漁った。
ボディコンスーツが懐かしい。法廷シーンがスカッとした。
主演がよかった。
あの一文に触れた感想は、ほとんど見当たらなかった。

驚いた。だが、すぐに腑に落ちた。多くの人にとって、
これは「昔の話」なのだ。最後の一文が「今の話だ」と
告げているのに、誰も振り返らない。

素通りされる一文。
それこそが、37年変わらなかった理由ではないか。

失われた30年ではない、止まったままの37年

この映画を観に行く人に、セクハラ行為者はいないと信じたい。
おそらく、いない。問題は、観に行かない人だ。

講師として断言する。
ここ数年、セクハラ研修の依頼はむしろ増えている。
ゼロになる気配はない。
求職者へのセクハラ、いわゆる就活セクハラは、ついに法律で
防止措置が義務づけられる時代になった。
法律が要るほど、止まっていないということだ。

相談の中身も変わらない。
相変わらずのボディタッチ。休憩中にスマホでアダルト動画を見る社員。
男性同士のセクハラ。社内でのストーカーまがいの行為。体型容姿いじり。
挙げればきりがない。
大きく報じられることは少くない。
だが、苦しんでいる人は確かにいる。

自社を志望してくれた学生を、傷つける大人

特に伝えたいのは、休職者等に対するセクシャルハラスメント
(旧:就活セクハラ)だ。

自社を志望してくれた学生に、セクハラをする。その結果、
入院した学生がいる。メンタルクリニックに通い、薬を飲み続けている
学生がいる。
厚生労働省の調査にも、その実態ははっきりと表れている。
会社の看板を背負った採用の場で、未来の仲間を陥れる大人がいる。
これが、今この国で起きている事実である。

エンドロールは、宿題だった

「昔はひどかったね」と笑える日は、まだ来ていない。

懐かしがっている場合ではない。エンドロール前のあの一文は、
過去の物語の締めくくりではなかった。
今を生きる私たちへの宿題だったのではないか。

制度でもない。マニュアルでもない。
未来を担う若い人を、どうか大事にできる大人を育ててほしい。

エンドロールが終わっても、あの一文だけは消えなかった。

宿題は、まだ終わっていない。
だから、私は、明日も研修の場に立つ。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

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ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

考えてはいけないことを、考えてみた。


『考えてはいけないことリスト』というタイトルに、つい手が伸びた。
著者は言語学者・堀田秀吾氏。

世界中の学術論文をもとに、「私たちが考えないほうがよいこと」を紹介した
一冊である。
読み進めていると、なぜか職場のことが次々と頭に浮かんできた。
特に目に留まったのが、「空気」「世間体」「みんなと同じ」という三つの言葉。

企業研修の現場でよく耳にする、

「若手社員から新しい提案が出てこない」
「最近の若い人は挑戦しなくなった」

という嘆きとも、驚くほど地続きだった。

「空気を壊したかも」という思い込み

「空気を読む」ことを、日本人はことのほか重んじる。
会議でも雑談でも、

「今、これを言うべきか」
「変に思われないか」
「みんなと違うことを言って大丈夫か」

そう周囲を窺いながら話す人は少なくない。
だが堀田氏によれば、「空気」の正体とは、
その場にいる人たちが無意識に
共有する前提や共通認識だという。

そして、その前提は人によって違う。
最初から全員が同じ空気を共有しているわけではないのだ。
会話とは、違いをすり合わせながら共通理解をつくっていく作業。
だとすれば、「空気を読む」という言葉自体が、
少し誤解を生みやすいのかもしれない。

空気は、読むものではない。つくるものである。

「そんなことを言ったら空気が悪くなる」
「今さら反対意見は言いづらい」
職場でよく聞く言葉である。
しかし、異論が出るからこそ議論は生まれ、結論は磨かれる。
空気を壊すことを恐れるあまり、誰も本音を言わなくなる組織。
私は、そちらのほうがよほど深刻な問題だと思う。

「世間体」という見えない圧力

もう一つが、「世間体が悪いのではないか」という発想である。
空気と世間体は似ている。
空気が職場など比較的小さな集団の中で働く圧力だとすれば、
世間体は、より広い社会から自分がどう見られているかを意識することだろう。

「失敗したら恥ずかしい」
「変な人だと思われたくない」
「周囲から浮きたくない」

こうした感情は、私たちの行動を静かに縛る。

しかも今はSNSがある。
見知らぬ誰かの批判まで目に入ってくる時代である。

「目立たないほうがいい」
「余計なことは言わないでおこう」
「黙っているほうが安全だ」

そう考える人が増えても不思議ではない。
問題は、その感覚が職場にも持ち込まれたときである。
誰も反対意見を言わない。
誰も新しい提案をしない。
誰も挑戦しない。
そんな組織が、少しずつ出来上がっていく。

「みんなと同じ」は、本当に正解か

堀田氏は、「みんなと同じでいたい」という心理にも触れている。

集団に受け入れられたいという欲求そのものは自然だ。
問題は、それが行き過ぎたときである。

「普通はこうだ」
「みんなそうしている」
「そんなことをする人はいない」

こうした言葉が増えるほど、異質なものへの許容度は下がっていく。
私はハラスメントを考えるとき、この「普通」という一語を警戒している。

ハラスメントは、行為者個人の性格だけから生まれるものではないからだ。
「これくらい普通だ」
「昔からこうやってきた」
「みんな我慢している」

そんな空気が、問題のある言動を静かに許容してしまうことがある。
歴史の長い企業を訪ねると、そこには長年積み重ねられてきた独自の文化がある。
文化そのものが悪いわけではない。むしろ企業の強みになっている場合も多い。

しかし、その文化が固定化されたとき、「違う考え」の入り込む余地がなくなっていく。
会議で誰も異論を言わない。
新しい提案が出てこない。
これまでのやり方を変えようとする人がいない。
そんな組織を、私は研修の現場で何度も見てきた。

「若手が挑戦しなくなった」のか、それとも

「若い人たちが挑戦しなくなった」
「前提をくつがえすような提案が出てこない」
管理職からこの手の相談を受けるたび、私は一度立ち止まる。
それは本当に、若手社員だけの問題なのか。
以前、ある方からこんな話を聞いた。
回転寿司でマグロに七味唐辛子をかけて食べていたところ、周囲から、
「え、それはおかしい」
「普通はそんな食べ方しない」
と言われたという。
本人はその場では聞き流した。
だが後になって、
「自分を否定されたような気持ちになった」
と話していた。
もちろん、マグロに七味をかけるかどうかなど、たいした話ではない。
かけてもいいし、かけなくてもいい。本人が好きなように食べれば
いいだけのことである。

私が気になったのは、そこではない。
そんな小さな違いに対してさえ、「おかしい」「普通はそうしない」
という言葉が出てくることだ。
言った側に悪気はなかっただろう。ただの雑談だったに違いない。
しかし、「おかしい」「普通はこうする」という言葉には、思っている
以上の力がある。
それが日常の中で繰り返されれば、
「自分の感覚は、この職場では受け入れられない」
「みんなと違うことは言わないほうがいい」
と感じるようになるかもしれない。
若手から新しい提案が出てこない理由の一端は、こうしたところにも
あるのではないか。
日常では「普通はこうだ」と違いを否定しておきながら、
会議になった途端、

「若手らしい自由な発想を出してほしい」
「前例にとらわれない提案がほしい」
と求める。

少し虫のいい話ではないか。
人は、会議室に入った瞬間だけ自由に発言できるようになるわけではない。
日常の何気ない会話の積み重ねこそが、
「ここでは違うことを言っても大丈夫だ」
という感覚を育てていく。

失敗を責める組織に、挑戦は生まれない

「失敗したら人生が終わる」という考えも、本書では手放したほうが
よいものとして紹介されている。

たしかに現代社会には、失敗に厳しい面がある。
SNSでは失敗が拡散され、職場でもミスを厳しく責められることがある。
しかし、一つの失敗は一つの出来事であって、人生そのものではない。
むしろ失敗から学べることも多い。

これは組織にも当てはまる。
失敗した人を責める組織では、人は「失敗しない方法」を考え始める。

挑戦しない。
余計な提案をしない。
これまで通りにやる。
そのほうが安全だからだ。

「みんなと違うことをするな」という空気と、「失敗するな」という空気。
一見、別のものに見える。
しかし私は、根っこは同じではないかと思っている。

決められた枠から外れることを、どこまで組織が許容できるか。
それが問われているのではないだろうか。

「若手の問題」の前に、組織の空気を見る

堀田氏は自分軸を保つ方法として、他人ではなく過去の自分と比較することや、
「わからないものはわからない」と認めることを挙げている。
特に後者は、職場でも重要だと思う。
「上司はきっとこう思っている」
「みんな私を評価していない」
「こんなことを言ったら嫌われるかもしれない」
わからないはずの他人の気持ちを想像し、その想像によって自分の行動を
止めてしまう。

ただ、私はそれを単なる「本人の思い込み」で片づけたくない。
「そんなことを言ったら怒られる」
「失敗したら責められる」
「変な提案をしたら笑われる」
そう思わせる何かが、職場の日常に潜んでいないだろうか。
上司の表情。
誰かが否定されたときの会議の空気。
失敗した人への接し方。
「普通はこうだ」という何気ない一言。
そうした小さな出来事の積み重ねが、組織の空気をつくっていく。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である

私は、ハラスメントを考えるとき、行為者だけを見ていては不十分だと考えている。
その人の価値観や思い込みを見る。
上司と部下の関係を見る。
周囲の沈黙や傍観を見る。
そして、その背後にある組織文化を見る。
「若手が意見を言わない」という現象も、構造は同じではないだろうか。
若手の主体性だけを問題にするのではなく、
この組織は、本当に違う意見を歓迎してきたのか。
と問い直してみる。

「挑戦してほしい」と言いながら、失敗した人を責めていないか。
「自由に意見を言ってほしい」と言いながら、上司と違う意見を言った人
を面倒な人として扱っていないか。
「若手ならではの発想がほしい」と言いながら、日常では「普通はこうだ」
と違いを否定していないか。

自分と違う考えや行動を見たとき、
「それはおかしい」
「普通はそんなことをしない」
とすぐに判断するのではなく、
「そういう考え方もあるのか」
「それはおもしろい」
と、まず受け止めてみる。

そんな日常の小さな反応の積み重ねが、
「ここでは自分の意見を言っても大丈夫だ」
という感覚につながっていくのだと思う。
違いを認め合える職場をつくること。

それはハラスメントを防ぐことだけではない。
新しい意見や挑戦が生まれる組織をつくることにもつながっている。
『考えてはいけないことリスト』を読みながら、そんなことを考えた。
マグロに七味をかけるかどうかは、どうでもいい。
しかし、そんな小さな「違い」を、私たちが日常の中でどう扱って
いるかは、どうでもよくない。

「おかしい」
「普通はそうしない」
「みんなこうしている」

そんな何気ない言葉の積み重ねが、いつの間にか、
「違うことを言わないほうがいい」
という空気をつくっているかもしれないからだ。
もし今、あなたの職場で、
「若手から新しい提案が出てこない」
と感じているとしたら。
「なぜ若手は提案しないのか」と考える前に、もう一つ、
考えてみてもいいのかもしれない。

私たちの職場は、「普通」から外れても大丈夫だと思える
場所になっているだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

「どう思ってる?」が部下を追い詰める。感情を出せない職場で、人は言葉を失っていく

「どう思ってるの?」
「何が問題なの?」
「ちゃんと言ってくれないと、わからないよ」

職場でよく交わされる問いです。
悪気はありません。むしろ、「本音を引き出そう」「部下の話を聞こう」という
善意からの問いかもしれません。
でも、その善意が、かえって人を追い詰めてしまうことがあります。

先日、NHK Eテレ『toi-toi』を見ました。
テーマは「自分の気持ち わかりますか?」。

親との死別、家庭環境、人間関係、孤独。それぞれの事情を抱えた若者たちが、
自分の感情について語っていました。

その場で気持ちのやりとりを求められても、すぐには自分の気持ちを形にできない。
ある出演者の話を聞きながら、私は思いました。
これは職場でも起きているのではないか。

「どう思ってる?」が“圧”になる

気持ちを言葉にできない。だから、沈黙する。
すると上司は、

「考えていないの?」
「何か不満があるの?」
「不機嫌なの?」
と受け取ってしまう。

さらに、
「言ってくれないと、こっちもわからないよ」
と問いかける。

でも、本当に「言いたくない」のでしょうか。
もしかすると、本人にもまだわかっていないのかもしれません。
悲しいのか。悔しいのか。腹が立っているのか。不安なのか。
それとも、いくつもの感情が混ざり合っているのか。

自分でも整理できていない状態で、「で、どう思ってるの?」
と答えを求められる。
すると人は、とりあえずその場に合う「答え」をつくってしまうことがあります。
本音というより、その場を乗り切るための「正解らしきもの」です。

「大丈夫です」は、本当に大丈夫なのか

番組では、入院中の経験を語った出演者がいました。

周りを悲しませたくない。つらくても明るく振る舞う。
それを続けているうちに、自分の感情さえわからなくなっていった。
悲しいのか、うれしいのか、それさえわからない。

職場でも、似たことが起きているのではないでしょうか。

本当は困っている。仕事を抱え込んでいる。上司との関係に悩んでいる。
それでも、
「何か困っていることはない?」
と聞かれると、

「大丈夫です」

と答えてしまう。

迷惑をかけたくない。弱いと思われたくない。空気を悪くしたくない。
そうやって周囲に合わせ続けているうちに、自分でも自分の感情が
わからなくなることがあります。

だから、「大丈夫です」という言葉だけで、
「大丈夫なんだ」と判断してしまうことには、少し慎重であったほうが
いいと思います。
言葉になっていないものが、その後ろに隠れているかもしれないからです。

言葉にできない感情がある

自分の感情を言葉にすることは、簡単な作業ではありません。
番組では、臨床心理士の倉西ひろしさんが「感情を選べない」という
印象的な話をしていました。

たとえば、レストランでメニューを渡されても選べない人がいる。
「これが食べたい」というものがなく、「どれも違う」と感じる。

感情も同じだというのです。

悲しい。悔しい。寂しい。腹が立つ。
言葉はいくつもあります。

でも、今の自分の気持ちは、そのどれにも当てはまらないことがある。

また、俳人の夏井いつきさんの言葉も印象に残りました。

「人のこと以上に、自分のことはわからない。
言葉はそもそも不自由なもので、自分の心を100%言葉にすることなどできない。」

人の感情は、それほど単純ではありません。
にもかかわらず、職場では、

「結局、どう思ってるの?」
「結論は?」

と即答を求めてしまう。

それでは、話せない人がますます話せなくなっても不思議ではありません。
「沈黙を待ってくれると救われる」では、上司はどうすればいいのでしょうか。

「沈黙も含めて待ってくれると救われる」

番組で印象に残った一言でした。

多くの上司は、沈黙が苦手です。
部下が黙ると、「何か言わなければ」「質問を変えなければ」「アドバイスしなければ」と焦ってしまう。
早く結論を出そうとすることもあります。
でも、感情には、すぐに言葉になるものと、時間をかけなければ言葉にならないものがあります。
上司に必要なのは、沈黙を埋めることではなく、沈黙を待つことなのかもしれません。

「今、わからなくても大丈夫だよ」
「うまく言葉にしなくてもいいよ」

その一言だけで、安心して自分の感情と向き合える人もいるのではないでしょうか。

励ましや解決策が、逆効果になることもある

もう一つ大切なのは、ようやく言葉にした感情を「ジャッジしない」ことです。

励ますつもりで、
「そんなことで落ち込むなよ」
「気にしすぎだよ」
「もっと前向きに考えよう」

と言うことがあります。

言った本人は励ましているつもりです。

でも、受け取る側には、
「そんなふうに感じてはいけない」
と、自分の感情を否定されたように伝わることがあります。
すぐに解決策を差し出すことも、いつも正解とは限りません。

「転んで膝をすりむいて、痛かった」
と言う相手に、
「薬を塗れば治るよ」
と返す。
間違ってはいません。

でも、その人がその瞬間に求めているのは治療方法ではなく、
「痛かったね」
という一言かもしれません。

職場も同じです。
解決する前に、まず受け止める。
私は、この順番がとても大切だと思っています。

若手社員は「もっと感情を話したい」

若手社員向けの研修で、私はこう聞くことがあります。

「職場の人に感謝していることはありますか」
「反対に、嫌だったことはありますか」
すると、さまざまなエピソードが出てきます。

私がお願いするのは一つだけです。
「出来事だけではなく、そのとき自分がどう感じたのかも話してみてください」
急かしません。沈黙しても待ちます。

そして、話してくれた内容に、すぐアドバイスもしません。
すると、多くの人が少しずつ、自分の気持ちを話し始めます。

研修後のアンケートでは、
「もっと話したかった」
という声が出てきます。

私はこれを見るたびに思います。
若い人たちは「話したくない」のではないのかもしれない。
安心して話せる場所があれば、本当はもっと自分の感情を
言葉にしたいのではないか。

問題は「話さない部下」だけにあるのか

「あの部下は何を考えているかわからない」
「最近の若手は本音を言わない」

職場でよく聞く言葉です。
でも、私はここで、問いを少し変えてみたいと思います。

本当に、その人が「話さない人」なのでしょうか。
それとも、その職場が「話せなくなる場所」になってはいないでしょうか。
すぐに答えを求められる。
感情を話すと評価される。
弱音を吐くと否定される。
相談すると、すぐにアドバイスされる。
沈黙すると、不機嫌だと思われる。
そんな経験が積み重なれば、人は少しずつ言葉を失っていきます。

これは、上司個人の「聴き方」だけの問題ではありません。
職場に、弱さや迷い、言葉にならない感情を置いておける余白があるか。
そこまで考える必要があると、私は思います。

ハラスメント研修でも、似たような場面があります。

問題が起きた後、
「なぜ相談しなかったのか」
「なぜもっと早く言わなかったのか」
と問われる。

でも、本当に問うべきなのは、
「なぜ、その人は言えなかったのか」
ではないでしょうか。

相談できる制度があることと、相談できる職場であることは、
同じではありません。
1on1があることと、本音を話せることも、同じではありません。
制度をつくることは大切です。

でも、制度があるだけでは、人は話してくれない。
私は、そこに職場づくりの難しさがあると思っています。

人と組織を映すのは「沈黙」かもしれない

私はこれまで、ハラスメントは「人と組織を映す鏡」だと考えてきました。
今回の番組を見ていて、もう一つ思ったことがあります。
職場の「沈黙」もまた、人と組織を映す鏡なのではないか。

部下が黙ったとき、
「何を考えているのかわからない」
と相手の問題にするのか。

それとも、
「なぜ、この人は今、言葉にできないのだろう」
「私たちの職場は、安心して迷いや感情を出せる場所だろうか」
と、自分たちの側にも問いを向けるのか。

この違いは、とても大きいと思います。

急かさない。
沈黙を待つ。
感情を否定しない。
すぐに解決しようとしない。
そして、言葉になるまでの時間を尊重する。
部下の本音を「引き出す」ことよりも、
本音が出てくるまで待てる職場をつくること。

それが、これからの上司に求められる大切な力ではないでしょうか。

あなたの職場では、誰かが沈黙したとき、その沈黙を待てているでしょうか。
それとも、
「どう思ってる?」
と、知らず知らずのうちに答えを急かしていませんか?

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#感情
#言葉
#沈黙
#部下指導
#パワハラ

「悪気はなかった」では、痛みは消えない。 ―高校野球の「死球」から考えるパワハラと職場の慣習

「死球」「刺殺」「併殺」。
野球を知っている人なら、ごく当たり前に使ってきた言葉だろう。
その「当たり前」に、宮城県高校野球連盟が問いを投げかけた。

「野球用語を考えてみませんか?」

すぐに言葉を変えよう、禁止しよう、という話ではない。
私が興味を持ったのは、むしろ、この問題提起が生まれた背景だった。

高校野球のグラウンドでは、
「殺せ!」
「刺せ!」
「盗め!」
といった言葉が飛び交うことがあるという。

もちろん、本当に殺したり、刺したり、盗んだりする意味ではない。
言う側にも、おそらく悪気はない。
野球を長くやってきた人なら、「そういうものだ」と聞き流す言葉なのかもしれない。
しかし、初めて野球の現場に来た子どもが聞いたら、どう感じるだろうか。
宮城県高野連が投げかけているのは、まさにそこへの問いである。

「そんな意味で言ったのではない」
「昔からそう言ってきた」
「みんな分かっている」
それで、本当にいいのだろうか。

この記事を読みながら、私は企業のパワハラ問題とよく似ていると感じた。 問題になる言葉の多くは、最初から相手を傷つけようとして発せられているわけではない。

むしろ厄介なのは、言っている本人も、周囲も、それを問題だと思っていないことである。
「昔から普通だった」という言葉の中に、組織の問題が隠れている。

「昔から普通だった」という免罪符

企業研修に伺っていると、繰り返し耳にする言葉がある。

「昔はこれくらい普通だった」
「悪気はなかった」
「この業界では昔からこの言い方だ」

ある職場で問題になる言動が、別の職場では平然と使われている。
その差を生んでいるものの一つが、職場の慣習である。
人は同じ環境に長く身を置けば、その「当たり前」を無自覚に取り込んでいく。
最初は引っかかった言葉も、毎日聞いているうちに違和感が薄れていく。そして自分が上司になったとき、今度はその言葉を発する側に回る。

「自分もそう育てられたから」。
こうして受け継がれていくのは、言葉だけではない。
その奥にある価値観である。

長くいる人ほど、おかしさに気づけない

 これは特定の一社の話ではない。
業種や規模の異なる企業の研修に伺うなかで、私は似たような構図を何度も目にしてきた。
管理職研修で、こんな質問を投げることがある。

「今の職場で、これは言い過ぎだと思う言葉はありますか」
多くの場合、反応は薄い。
特に思い当たらない、という表情が返ってくる。

ところが、同じような問いを若手社員にすると、違った反応が返ってくることがある。

管理職の耳にはもう何も引っかからなくなっている言葉が、若手社員の耳には「なぜ、こんな言い方をするのだろう」と違和感として届いている。

これは、能力や誠実さの差ではない。
むしろ真面目に部下を育てようとしている管理職ほど、自分が慣れ親しんできた言葉や指導の仕方を疑う機会がないこともある。

長く同じ場所にいるということは、それだけで感覚が慣れてしまうことがある。
野球でも、職場でも、それは変わらない。

だからこそ、「そんな意味で言っていない」「悪気はなかった」という説明だけでは十分ではない。
自分がどういうつもりで発したかだけではなく、相手にはどう届いたのか。
そして、その組織の文化を知らない人には、どう見えるのか。
その視点を失ったとき、組織の「当たり前」と社会の「当たり前」は、少しずつずれ始める。

「人」だけを見ても、組織は変わらない

 パワハラが起きると、私たちは本人にばかり目を向ける。

「あの管理職のコミュニケーションが悪い」
「あの人は感情的になりやすい」
もちろん、本人の言動改善は必要である。
だが、それだけで十分だとは、私は考えていない。

なぜその人物は、その言葉を使うようになったのか。
なぜ周囲は止めなかったのか。
上司はそれをどう見ていたのか。
同じような言動が、職場のあちこちで既に起きていなかったか。

さらに言えば、
「結果さえ出せば多少厳しくても構わない」
という価値観を、組織そのものが持っていなかっただろうか。

視点を「人」から「職場」、そして「組織」へ広げれば、パワハラは
個人のコミュニケーション不全だけでは説明できなくなる。
その人の言動を許容し、場合によっては強化してきた職場の空気や
組織の価値観まで見なければ、本当の原因は見えてこない。

ハラスメントとは、人と組織を映す鏡である。
私は、そう考えている。

言葉を変えれば解決するのか

では、「死球」を別の言葉に置き換えれば、問題は解決するのだろうか。
私は、そう単純な話ではないと思う。

「死球」という言葉を変えたところで、野球界の文化そのものが変わる  わけではない。
企業も同じである。

「呼び捨てをやめよう」
「さん付けにしよう」
「乱暴な言葉は禁止しよう」

もちろん、無意味ではない。
言葉を変えることで、人の意識や行動が変わることもある。
しかし、表面の言葉だけを差し替えて、その奥にある価値観が変わらなければ、本質的な問題は残ったままである。

問うべきなのは、「この言葉は禁止」という線引きだけではない。

なぜ私たちは、この言葉を当たり前だと思ってきたのか。
なぜ違和感を持たなくなったのか。
なぜ誰も「それ、おかしくないですか」と言わなかったのか。
そこには、先輩から後輩へ、上司から部下へと受け継がれてきた、
その組織固有の価値観がある。

そして、その「当たり前」の中にこそ、ハラスメントを育てる土壌が潜んでいることがある。

「違和感」は組織を映すセンサーである

 研修の現場で感じるのは、「何を言ってはいけないか」を覚えるだけでは、いずれ限界が来るということだ。
それ以上に重要なのは、自分たちの職場の「当たり前」そのものを疑う姿勢である。

「昔からこうだった」
「みんな我慢してきた」
「この業界では普通だ」
こうした言葉が出たときこそ、一度立ち止まってみる必要があるのではないか。

社会は変わる。
人の価値観も変わる。
そして、そこで働く人も変わっていく。

それなのに職場の常識だけが何十年も止まったままなら、いつか社会との間に大きなずれが生まれる。

私は、ハラスメント防止において、この「ずれ」に気づくことが非常に
重要だと考えている。
問題が表面化してから、
「誰が悪かったのか」
「どの発言がアウトだったのか」
と検証することも必要である。

しかし、その前にできることがある。
職場の中にある小さな違和感を拾うことである。

新しく入ってきた社員が、
「なぜ、こんな言い方をするのだろう」
「なぜ、誰も何も言わないのだろう」
と感じたとき、その感覚を「最近の若者は気にしすぎる」で
片づけてしまわない。
長くいる人には見えなくなったものを、新しく入ってきた人が
見つけている可能性があるからだ。
違和感は、単なる不満ではない。
組織の「当たり前」が社会の感覚とずれ始めていることを
知らせるセンサーにもなり得る。

「当たり前」を疑える組織であるか

 宮城県高野連が投げかけたのは、「死球を禁止しましょう」という単純な話ではない。
公式サイトにもあるように、あくまで「野球用語を考えてみませんか?」という問題提起である。

長く使われてきた言葉を、今の時代の目でもう一度見直してみる。
私は、その姿勢そのものに意味があると思う。

そして、この問いはそのまま企業にも向けることができる。
あなたの職場にも、長くいる人には聞こえなくなった言葉はないだろうか。
「昔から普通だった」という理由だけで、受け継がれてきた慣習はないだろうか。
「自分もそうやって育てられた」という理由で、次の世代にも同じことを求めてはいないだろうか。

新しく入ってきた人の目で、自分たちの職場を見直してみる。
そこで生まれる小さな違和感は、単なる「最近の若者の感覚」
ではないかもしれない。
組織が変わるための、重要なサインかもしれないのである。

パワハラをなくす第一歩は、問題のある人間を探し出すことだけ
ではない。
自分たちが、もはや疑わなくなった「当たり前」に気づくこと。
そこから始まるのではないだろうか。

死球は、投げた側に当てる意図がなくても、当たった側には痛みが残る。
職場の言葉も、同じではないだろうか。

参考・出典

・集英社オンライン「〈『一死』『併殺』『死球』が消える?〉『殺せ』『刺せ』が飛び交う野球界に宮城県高野連が問題提起…『言葉狩り』批判に理事長が語った“真意”」(2026年8月21日)
・宮城県高等学校野球連盟「野球用語を考えてみませんか?」

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
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#高校野球
#当たり前を疑う
#パワハラ



なぜ誰も止められないのか -ラグビーと横浜市役所に見る「NOと言えない組織」

先日、プロラグビー選手の山川力優さんが書いたnoteを読んで、
手が止まった。

タイトルは「なぜラグビーは夏に過酷な練習をやめられないのか
〜『負ける不安』が選手を追い詰める〜」。

同じリーグワンで戦う選手が練習中に熱中症となり、搬送先の病院で亡くなった。その事実を受けて、山川さんが自身の経験と日本ラグビー界の構造について綴った記事である。

その中に、こんな一文があった。

「試合に出たい選手ほど、外されるのが怖くて、言えない。僕も言えませんでした。言えない構造の中に、僕自身がいました。」

「言えない構造」。

この言葉が強く残った。

ラグビーだけの話ではない。
会社のパワーハラスメントも、企業不正も、重大事故も、
よく似た構図の上で起きることがある。

問題が起きたあと、私たちはつい言う。

「なぜもっと早く言わなかったのか」
「なぜ相談しなかったのか」
「なぜ止めなかったのか」

だが、本当に問うべきはそこではない。

「なぜ言わなかったのか」ではない。
「なぜ言えなかったのか」だ。

「わかっている」のに、なぜ止まらないのか

山川選手は熱中症対策について、こう書いている。

「熱中症の対策なんて、現場のみんなが『わかってる』んです。
わかっているのに、それでも事故は起きる。ということは、
これは知識の問題やなくて、構造の問題です。」

この指摘は、ハラスメント防止にもそのまま当てはまる。
多くの企業が毎年のようにハラスメント研修を実施している。
人格を否定してはいけない。
感情的に怒鳴ってはいけない。
部下の話を聴く。
困ったら相談窓口を利用する。
管理職の多くは、もうすでに知っている。
それでも、ハラスメントは起きる。
だとすれば、知識不足だけの問題ではない。

知っていても、その通りに行動できなくなる「何か」が、
組織の中に潜んでいる。
私は、そこを見なければならないと思っている。

「負ける不安」と「数字を落とす不安」

なぜ指導者は危険な練習を止められないのか。
山川選手はこう考えている。
「原因は、指導者個人の問題やなくて、『負けたら後がない』
という強烈な不安にあると思っています。」
相手チームがやっているかもしれない練習を、自分たちだけやめる。
それは指導者にとっても怖い。

企業組織と、驚くほど似た構図がここにある。

「今期の数字を落とせない」
「この目標は絶対だ」
「競合はもっとやっている」
「自分だけ未達では終われない」
その不安を抱えた管理職が、自分のところで圧力を止められず、
さらに下へ流してしまう。

「もう少し頑張れ」
「今月だけだから」
「みんなやっている」
その「もう少し」の蓄積の先に、長時間労働があり、
心身の不調があり、ハラスメントが生まれることがある。

そして、同じ構造は企業不正にもつながる。
利益を出さなければならない。
数字を達成しなければならない。
納期を守らなければならない。

プレッシャーが極端に強まれば、
「これくらいなら」
「今回だけなら」
という判断が積み重なり、ルール違反や隠蔽へ流れていくことがある。
私は、ハラスメントと企業不正はまったく別の問題ではないと
考えている。

「数字や結果への過剰なプレッシャー」という同じ土壌から
生まれることがある。 だから、ハラスメントという現象だけを
見ていても、その組織が抱えている本当の問題は見えてこない。

横浜市役所にもあった「NOと言えない構造」

このnoteを読みながら、横浜市が公表した、市長の言動に関する
第三者調査報告書を思い出した。

報告書で私が注目したのは、市長の個々の言動だけではない。
上位者の意向に沿わなければ人事上の不利益を受けるのではないか
という懸念、職員の萎縮、そして本来であれば働くべき組織内部の抑止
や牽制が十分に機能しなかったという点である。

つまり、問われているのは「誰が何を言ったか」だけではない。
なぜ、周囲は止められなかったのか。
ここに組織の問題がある。

ラグビーと市役所。
接点などないはずの二つの世界である。
だが、そこには共通する構造がある。
上の人に異論を言えば、自分の立場が危うくなるかもしれない。
評価に響くかもしれない。
試合に出られなくなるかもしれない。
異動させられるかもしれない。
そう感じれば、人は次第に黙る。

そして怖いのは、その沈黙が一人で終わらず、組織全体へ
広がっていくことだ。
パワーハラスメントを「問題のある上司」の話だけで終わらせれば、
この構造を見落とす。
その上司自身は、その上にNOと言えているのか。
その幹部は、トップにNOと言えているのか。

不安を抱えた人間が、その不安をさらに立場の弱い人間へ流す。
ここに、ハラスメントが連鎖する理由の一つがある。

心理的安全性は、数字の前で機能するのか

企業では最近、「心理的安全性」という言葉がよく使われる。

「何でも言ってください」
「異論を歓迎します」
「困ったら相談してください」
もちろん大切である。

だが、その一方で、
「数字は絶対達成しろ」
「失敗は許されない」
「未達なら評価を下げる」
というメッセージが流れていたら、人はどちらを信じるだろうか。

私は、組織の本当の価値観は、掲げる言葉には現れないと思っている。
何かと何かが衝突したとき、どちらを優先するのか。
そこに現れる。

人の安全と数字がぶつかったとき。
コンプライアンスと利益がぶつかったとき。
部下の健康と納期がぶつかったとき。
組織はどちらを選ぶのか。
社員は、その判断を見ている。
「人を大切にする」と書かれた理念よりも、数字と人がぶつかった
瞬間に経営が何を選んだのかを見ている。

そこで数字ばかりが優先されれば、「何でも言ってください」
と言われても、社員は本当のメッセージを理解する。

結局、数字の方が大事なのだ、と。

心理的安全性は、制度やスローガンだけではつくれない。
評価や処遇、そして経営の判断まで含めて、「本当に言っても大丈夫だ」と感じられる環境がなければ、絵に描いた餅で終わる。

「上が止める」しかない

山川選手の記事で、最も考えさせられた言葉の一つがある。
「上が『止める』しかない」
現場の指導者が「他チームはやっているのに、自分たちだけ止めたら
負ける」と不安を抱くなら、現場だけに判断を委ねてはいけない。
全チームに共通するルールをつくり、一定の条件になれば必ず止める。
重要なのは、そのルールが指導者を処罰するためだけのものではないということだ。

むしろ、指導者自身を「止めたくても止められない状況」から守るための仕組みでもある。

これは企業のガバナンスにも通じる。
「現場で適切に判断してください」
「コンプライアンスを守りながら数字も達成してください」
それだけでは足りない。

現場には利害がある。
評価がある。
競争がある。
だからこそ、組織として、
「ここから先はやってはいけない」
という線を引く必要がある。

良いルールとは、人を縛るだけのものではない。
正しい判断をしたい人間が、正しい判断をできるように守るものだ。
「死ぬために練習しているんじゃない」
そして、山川選手の記事には、私の胸に強く刺さった言葉が
もう一つあった。

「熱中症で死んだら、プロとか関係ない。
僕らは強くなるために練習しているのであって、死ぬために
練習しているんじゃない」

この言葉を読んだとき、私は仕事もまったく同じではないかと思った。

私たちは成果を出すために働いている。
会社を成長させるために働いている。
プロとして責任を果たすために働いている。
しかし、心身を壊すために働いているのではない。
まして、死ぬために働いているのではない。

「プロなんだから」
「管理職なんだから」
「給料をもらっているんだから」
「それくらいのプレッシャーには耐えるべきだ」
そんな言葉が、人の限界を見えなくさせることがある。

上司からのパワーハラスメントによって人が追い詰められ、
命まで失うことになったら、プロかどうかなど関係ない。
成果を出すことと、人の命や健康を犠牲にすることは、
まったく別の話である。

「メンタル」という言葉で、人の苦しみを軽くしていないか

私は、「メンタル」という言葉があまりにも簡単に使われていることにも違和感がある。
「メンタルが弱い」
「もっとメンタルを鍛えた方がいい」
「心の風邪みたいなものだから」
そんな言葉を耳にすることがある。
しかし、人の心が壊れていく苦しさを、そんな簡単な言葉で
片づけていいのだろうか。
私は時々思う。
メンタルの疾患を軽く見るのなら、その苦しさを経験してから言
ってほしい、と。
もちろん、同じ経験をしなければ人の苦しみを理解できない、
と言いたいのではない。

人は、他人の痛みを完全に経験することなどできない。
だからこそ必要なのが、想像することなのだと思う。
私はそこに、「同悲同喜」という言葉を重ねたい。
人の悲しみを自分の悲しみとして感じ、人の喜びを自分の喜び
として感じる。
同じ痛みを経験していなくても、その人が何を感じ、どれほど
苦しんでいるのかを想像しようとすることはできる。

職場に必要なのは、「もっと強くなれ」と突き放す人ではなく、
「この人はいま、どれほど苦しいのだろう」
と想像できる人ではないだろうか。
そんな想いを持てる人が、上司にも、同僚にも、そして経営者にも、
もっと増えてほしいと思う。

「本人の自己管理」で片づけてはいけない

山川選手は、もし自分が最悪の結果になっていたら、
「走り込みが足りなかったんじゃないか」
「体調が悪いなら申告すればよかった」
「自己管理ができていなかったんじゃないか」
と言われたかもしれない、と書く。

そして、こう続ける。
「僕は、言えなかっただけです。」

この一文は重い。

企業でも同じことが起きる。
「つらかったなら早く相談すればよかった」
「無理なら断ればよかった」
「自分で体調管理すべきだった」
しかし、言えない職場をつくっておいて、問題が起きたあとで
本人の自己責任へ差し戻す。
それでは何も変わらない。

むしろ、次に同じ状況になった人もまた言えなくなる。
「NOと言えなかった人」に勇気がなかったのではない。
「NOと言ったら何かを失う」と感じさせる組織だったのではないか。
そこを問わなければならない。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である

私は、ハラスメントとは、人と組織を映す鏡だと思っている。
誰かが強い言葉を使った。
部下を追い込んだ。
その行為だけを切り取れば、「問題のある上司」という結論で終わる。
もちろん、行為者の責任がなくなるわけではない。
しかし、そこで思考を止めてはいけない。
その背後には何があったのか。

過剰な目標。
評価への不安。
失敗を許さない空気。
「みんなやっている」という同調圧力。
上に異論を言えない関係。
そして、人よりも数字と結果を優先する組織の価値観。
そこまで見て初めて、なぜその職場でハラスメントが起きたのかが
見えてくる。

ラグビーのグラウンドで「休ませてください」と言えなかった選手。
市役所で上位者に異論を言えなかった職員。
会社で上司に「それは無理です」と言えない部下。
舞台はまったく異なる。
だが、突きつけてくる問いは同じだ。

あなたの会社では、部下は上司に「NO」と言えるだろうか。
そして、
その上司は、さらに上の人間に「NO」と言えるだろうか。
経営幹部は、トップに「それは違う」と言えるだろうか。

もし、誰もNOと言えない組織だとしたら。
その組織で本当に守られているのは何だろう。
人なのか。
それとも、
数字なのか。

「強くなるために練習しているのであって、
死ぬために練習しているんじゃない」

この言葉を、私は働く世界にも置き換えて考えたい。
私たちは、成果を出すために働いている。
成長するために働いている。
誰かの役に立つために働いている。
心身を壊すために働いているのではない。
まして、死ぬために働いているのではない。

そして最後に、もう一度問い直したい。

「NO」と言えないのは、本当にその人の勇気の問題
なのだろうか。

それとも、

「NO」と言わせない組織の問題なのだろうか。

引用出典
・yamakawa_ rikyu(山川力優 氏)
「なぜラグビーは夏に過酷な練習をやめられないのか〜『負ける不安』が選手を追い詰める〜」note (2026年8月15日)
・横浜市「横浜市長の言動にかかる第三者による調査 調査報告書」(2026年7月30日)

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、 
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#ラクビー
#横浜市役所
#NOと言えない組織
#ハラスメント

「どっちが正しいんだよ問題」とどう向き合うか ― 真逆の価値観がぶつかる職場でうまくやる考え方とは ―

会社という場所は、価値観の見本市である。

プロジェクトが行き詰まったとき、「やればできる。最後まで諦めるな」と背中を押す上司がいる。
その隣で、「無理なものは無理。現実を見よう」と冷静に言う上司もいる。
どちらの言い分も、聞けば頷ける。
だからこそ、部下は心の中でこう呟くことになる。
「で、どっちなんだよ」と。

今日はこの、職場という舞台で毎日のように起きている「どっちが正しいんだよ問題」を考えるうえで、なかなか面白い一冊を紹介したい。

ペズル著『どっちもある名言集』(ライツ社)。

この本の仕掛けは単純にして意地が悪い。
一つのテーマに対して、まったく逆のことを言っている名言を、平然と並べてくるのである。
読み進めるうちに、「正しい答えは一つではない」という、わかりきっているのに日々忘れられていく事実を、こちらの胸ぐらを掴んで思い出させてくる。
私はこの本を、単なる名言集としてではなく、職場で起きる価値観の衝突を読み解くための鏡として読んだ。
存外、使い出のある一冊だった。

「できる」と「できない」は、どちらも正しい

「やればできる」という思想がある。
ネルソン・マンデラの、何事も達成するまでは不可能に見える、という言葉に通じるものだ。
一方、太宰治には「出来ない事は、出来ないと言おう」という言葉がある。
前者は可能性を信じ、後者は現実を直視する。
どちらか一方が正しく、もう一方が間違っている、というほど話は単純にできていない。

問われるべきは「どちらが正しいか」ではなく、「いま、この状況ではどちらが必要なのか」である。
この違いに気づけるかどうかが、たぶん分水嶺になる。

「未来を見るか」「現実を見るか」

同じ構図は、未来をめぐる議論にも現れる。
ヘレン・ケラーは未来への夢を語り、ピーター・ドラッカーは現実から出発することの重要性を説いた。
夢だけを見ていては、仕事は一歩も進まない。
かといって、現実ばかりを見つめていては、新しい挑戦など生まれようがない。

組織には、未来を見る人間が必要である。
同時に、足元の現実を見る人間も必要である。
問題は、考え方が違うことではない。
自分とは違う考え方を、さっさと「間違っている」と決めつけてしまう、その手早さのほうである。

仕事は「好き」で選ぶのか、「嫌い」でもやるのか

仕事についても、真逆の思想が平然と同居している。
「好きなことで失敗したほうがいい」という考え方がある一方で、「やりたくない仕事こそ自分を磨く」という考え方もある。

若い頃には前者に共感していたのに、管理職になった途端、後者の意味が骨身に染みてわかる、ということもある。
あるいは同じ人間でも、置かれた状況次第で考え方はあっさり変わる。
つまり、私たちが「正しい」と信じているものの多くは、実のところ、その人の立場・経験・成功体験・置かれた状況が勝手に組み立てたものにすぎない。正しさというより、境遇の産物である。

なぜ、職場では「正しさ」がぶつかるのか

この本を職場という補助線で読むと、面白さの正体が見えてくる。
職場で対立が起きるとき、そこにいるのは必ずしも「正しい人」と「間違っている人」ではない。

むしろ、「自分なりの正しさ」と「相手なりの正しさ」が、ただ静かにぶつかり合っているだけ、というケースのほうが圧倒的に多いのではないか。

上司には上司の正しさがあり、部下には部下の正しさがある。
営業には営業の正しさがあり、管理部門には管理部門の正しさがある。
経営には経営の事情があり、現場には現場の事情がある。

ところが人は、自分の立場からしか世界を見られない生き物である。
そのため、いつの間にか「普通はこうするだろう」「社会人ならわかるだろう」「そんな考え方ではダメだ」と、自分の基準を「世の中の基準」に静かにすり替えてしまう。
人間関係の摩擦は、たいていこの瞬間に始まる。

ハラスメントも「自分が正しい」から始まることがある

ハラスメント研修の現場で、私は長くこの問題と向き合ってきた。
もちろん、すべてのハラスメントが価値観の違いから起きるわけではない。

しかし背景を辿っていくと、加害側に「自分は正しいことをしている」という認識があるケースは、決して少なくない。

「部下を成長させるために厳しくしている」
「これくらい、自分たちの時代は当たり前だった」
「本人のためを思って言っている」
「仕事なのだから、これくらいやって当然だ」

本人の中では、筋が通っているのである。
だからこそ厄介なのだ。

自分が間違っていると思っている人よりも、「自分は正しい」と確信している人のほうが、自分とは違う価値観に気づきにくい。皮肉なもので、確信の強さと視野の狭さは、しばしば比例する。
そして、立場や権限を持つ者の「正しさ」が肥大化すればするほど、相手は反論する余地を失っていく。

問題は「価値観が違うこと」ではない。
一つの価値観だけが絶対的な正解になり、ほかの価値観が声を上げられなくなること、それこそが問題なのである。

職場に「どっちもある」があるか

ここで視点を、個人から職場や組織へと広げてみたい。
「違う意見もあるよね」と言える職場だろうか。
上司と違う意見を口にしたとき、ちゃんと聞いてもらえるだろうか。
「私はそうは思いません」と言った人間が、面倒な人として扱われてはいないだろうか。

経営の方針に対して、現場から「それは無理です」と言えるだろうか。
もし、一つの「正しさ」しか許されない組織になっているとしたら、
問題は個人のコミュニケーション能力などという小さな話では済まない。
そこには上司と部下の力関係、職場の空気、心理的安全性、組織文化、そして経営が何を大切にしているのか、という根の深い問題まで絡んでくる。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である。
一人の問題行動だけを見るのではなく、「なぜ、この職場では一つの正しさだけが強くなったのか」まで踏み込んで考える必要がある、と私は思っている。

自分の中に「与党と野党」を持つ

『どっちもある名言集』の「おわりに」に、印象的な一文がある。
この本で大切なのは、深く共感した名言よりも、その隣にある逆視点の名言のほうだ、というのである。
私はこの考え方が、わりと好きだ。

人はどうしても、自分の考えを支持してくれる情報ばかりを集めたくなる生き物である。
だからこそ必要なのが、自分の中に「与党と野党」を飼っておくことだ。

「自分はこう思う。でも、逆から見たらどうだろう」
「部下から見たら、この指示はどう見えるだろう」
「自分の成功体験は、本当に今の時代にも通用するのだろうか」
「自分が間違っている可能性はないだろうか」

こうした小さな問いを自分の中に持つだけで、相手との関わり方は変わる。 私は、白洲次郎の「半分の人間に嫌われるくらいの仕事をするべき」という考え方にも共感する。

しかし、それに共感する自分がいるからこそ、反対側の考え方にも目を向けておきたい。
それが、この本を読んで改めて感じたことである。

「どっちが正しい?」から「なぜ、そう考える?」へ

職場で意見が対立したとき、私たちはつい「どちらが正しいのか」を決めたくなる。
しかし本当に必要なのは、勝ち負けを決めることではないのかもしれない。

「なぜ、あなたはそう考えるのか」
「なぜ、私はこう考えているのか」

そこに目を向けることである。

相手の価値観を理解することは、相手に同意することではない。
違う考えを持ったままでも構わない。
それでも、相手には相手なりの背景がある、と考えることはできる。
その余白がある職場では、意見の違いは「対立」ではなく「対話」になる。逆に、その余白が消えたとき、「自分の正しさ」が相手を追い詰める凶器に変わる。

今回紹介した『どっちもある名言集』。
ぜひ「おわりに」を読んだあと、もう一度最初からページをめくってみてほしい。
今度は、自分が共感する言葉ではなく、「自分なら選ばないほうの言葉」に注目してみる。
それは、自分とは異なる価値観を理解し、物事を一歩引いて見るための、地味だが効くトレーニングになる。

そして最後に、自分の職場について考えてみてほしい。

私たちの職場には、「どっちもある」と言える余白が、はたしてあるだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
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#価値感
#正しさ
#パワハラ

なぜ、「赤ペン先生」の言葉は人を伸ばせるのか。-ハラスメントについて考え続けてきた私が、管理職におススメの一冊

「ちゃんとほめているつもりなのに、部下に響いていない気がする。」
そんな経験はないでしょうか。

最近は、ほめ方や叱り方、1on1など、管理職向けのコミュニケーション研修も数多く行われています。パワハラにならないための、予防としての部下指導・コミュニケーション研修です。

もちろん、そうした研修はとても大切です。ただ、どんなテクニックを学ぶより先に、もっと根本的なものがあるのではないか。そんなことを考えさせられた一冊がありました。

それが、『赤ペン先生のほめ方 プロは「白紙」でもほめる。』(佐村俊恵著・ダイヤモンド社)です。
著者は「進研ゼミ」で20年以上、子どもの答案と向き合ってきた”赤ペン先生”。管理職の部下対応にも、そのまま使える視点が数多く詰まっていました。

目的は「成績」ではなく「自己肯定感」

進研ゼミが大切にしているのは、成績の向上そのものではありません。自己肯定感を育てることだといいます。だから赤ペン先生には「子どもを絶対に否定しない」姿勢が求められます。
「教えてあげる」「評価してあげる」という上から目線ではなく、
「成長を応援する」という立ち位置。
部下を「指導する対象」と見るか、「成長を支える相手」と見るか。
この違いは、日々の言葉の端々ににじみ出ます。

白紙にも「提出してくれてうれしい」

最も印象に残ったのが、白紙の答案への対応です。普通なら「次はちゃんとやろうね」と言いたくなる場面で、赤ペン先生は「提出してくれてうれしかったよ」と声をかけるそうです。
評価しているのは結果ではなく、「提出した」という行動そのものです。

職場でも、成果ばかりに目が向きがちになります。もちろん成果は大切です。しかし成果の手前には、「相談する」「挑戦する」「まずやってみる」という行動があります。
「相談してくれてありがとう」
「まず提出してくれてありがとう」。
この一言があるだけで、人は「またやってみよう」と思えるものです。
最初の一歩を認めることが、次の挑戦につながります。

「次は頑張ろう」が、相手を傷つけることもある

うまくいかなかった相手への「次は頑張ろう」。
励ましのつもりで、何度も使ってきた言葉です。
だが、これは「今回は頑張っていなかった」という意味に受け取られることがあるそうです。だから赤ペン先生は「よく頑張ったね」と伝えます。まず認めるのは「頑張った」という事実です。

管理職は、つい過程を見ずに(出来て当然)、次の目標に目を向けてしまいます。しかし本人は、すでに精一杯やっていることが少なくありません。まず努力を認める。その積み重ねが信頼をつくるのだと思います。

比べる相手は「他人」ではなく「過去の本人」

赤ペン先生には、他の子と比べるという発想がありません。「○○ちゃんはできていたよ」ではなく、「先月よりできるようになったね」。比べる相手は、他人ではなく過去の本人です。

他人との比較は、劣等感を生みやすくなります。一方で、「以前より説明がわかりやすくなったね」と自分自身の成長を認めてもらえると、「また頑張ろう」という気持ちになります。人を育てるのは競争ではなく、成長の実感なのかもしれません。

「すごい!」だけでは伝わらない

「すごいね」。この言葉だけで終わらせないのが赤ペン先生です。何が良かったのかが、これでは伝わりません。

職場でも同じではないでしょうか。「すごいね」だけでは響きません。「この資料は、結論が最初に書かれていて、とても分かりやすかった。」具体的に伝えられて初めて、「ちゃんと見てくれている」と感じられます。人は評価されること以上に、「見てもらえている」と感じたときに安心できるのだと思います。

「ちゃんと」は、実は伝わらない

「ちゃんと読みなさい。」と言われても、何をどうすればいいのかは分かりません。だから赤ペン先生は「ゆっくり読んでみよう。」「声に出して読んでみよう。」と、具体的な行動で伝えるそうです。

「主体的に」「丁寧に」「しっかり」。管理職は、つい抽象的な言葉を使いがちです。相手が実際に行動できるレベルまで具体的に伝えること。それが本当のコミュニケーションなのだと思います。

世代によって、伝わる表現は違う

本書には、赤ペン先生が「花まる」を何種類も使い分けているという話も紹介されています。ベテランになると、100種類以上のバリエーションを持っている人もいるそうです。気持ちを伝える工夫と言えるでしょう。

オンライン研修でも、同じことを感じます。20代の参加者はリアクションボタンやスタンプを積極的に使ってくれます。一方で、50代、60代になると、ほとんどリアクションがありません。
「軽い」と感じる人もいるのでしょう。
しかし若い世代にとっては、こうした小さなリアクションが
「見てもらえている」
「受け止めてもらえている」という安心感につながっています。
伝える内容だけでなく、伝え方も相手に合わせて工夫することが大切なのだと感じました。

「今のままでいていい」と伝えること

現在、日本では不登校の子どもが35万人を超えているそうです。
そんな中で、赤ペン先生は「今のままでもいていいんだよ」という、
存在そのものを認める姿勢を大切にしています。
「できる」「できない」、「結果が出た」「出ない」。
その前に、「あなたがここにいてくれること」を認める。

この姿勢は、職場でも決して無関係ではありません。
人は、自分が否定されないと感じられたときに、
初めて安心して挑戦できます。

おわりに

この本を読んで改めて感じたのは、「ほめる」とは話し方のテクニックではないということです。相手をよく見ているか。努力や成長を見逃していないか。その姿勢があるからこそ、言葉には説得力が生まれます。

「提出してくれてありがとう。」
「相談してくれてありがとう。」
「先月より説明が分かりやすくなったね。」
どれも特別な言葉ではありません。

しかし、こうした一言の積み重ねが、「この上司は自分を見てくれている」という信頼につながります。
部下を育てるのは、特別な話術ではありません。相手の変化を丁寧に見つけ、それを言葉にして伝えること。

そろそろ、「パワハラにならない部下指導」という、テクニカルの鎧を脱いでみてはどうでしょうか。

あなたも一度、赤ペン先生に添削してもらうといいかもしれません。ヒントは、案外シンプルなところにあるのだと思います。

是非、皆さんのご一読ください。おススメします。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
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#脱、パワハラにならない部下指導
#赤ペン先生
#指導とパワハラの違いを卒業しよう

オーストラリアのハラスメント学会で考えた、日本企業の課題 【6回/最終話】 正しいことを言う人ほど辞めていく会社

「それ、おかしくありませんか。」
職場で、そう思ったことはないでしょうか。
ルール違反。
品質管理の不備。
患者への危険な対応。
コンプライアンス違反。
ハラスメント。

普通に考えれば、そうした問題を指摘する人は組織から守られるべきです。しかし、オーストラリアの学会で発表された研究は、その逆が起きることを示していました。正しいことを言った人ほど、職場で孤立し、いじめの対象になり、最後には辞めていく。
この現象を研究者は、「脆弱性のパラドックス(Vulnerability Paradox)」と呼んでいました。

正しさがリスクになる組織

 発表はカナダ・ケベック州の看護師を対象にした研究でした。看護師たちは患者の安全を守るため、インスリン投与の確認漏れや、不適切な身体拘束など、倫理的に問題がある行為を見つけると声を上げます。しかし、その結果どうなったか。改善されたのではありません。
「ここでは昔からこうやっている。」
「あなたが間違っている。」
「空気を乱さないで。」
そう言われ、次第に職場で孤立していきました。

 私はこの話を聞きながら、看護の話ではないと思いました。これは日本企業でも、まったく同じことが起きています。

日本企業でも見てきた光景

品質データの改ざんを止めようとした人。
不正会計に疑問を持った人。
下請法違反を指摘した人。
ハラスメントを相談した人。
「そのやり方はおかしい」と言った人。

本来なら組織は、その人を守らなければなりません。

しかし現実には、
「余計なことを言う人」
「組織を乱す人」
「空気を読めない人」
として扱われることがあります。
そして最後には、その人が会社を去る。
問題は残ったままです。

「正しいこと」が危険になる理由

 研究では、この現象が起きる背景として、心理的安全性の低い組織文化が挙げられていました。心理的安全性が低い組織では、倫理的に正しい行動をとること自体が、個人のリスクになります。
つまり、正しいことを言うほど危険になる。だから誰も言わなくなる。沈黙する。見て見ぬふりをする。これが「脆弱性のパラドックス」です。

個人を責めても何も変わらない

 私はこの研究を聞きながら、改めて思いました。多くの企業は、「勇気を持って声を上げよう」と言います。もちろん、それは大切です。しかし、声を上げた人を守れない組織が、勇気だけを求めるのは酷です。

問題は、個人の勇気ではありません。組織の仕組みです。報復を許さない制度があるか。相談した人が守られるか。倫理的な行動が評価されるか。そこが問われています。

本当に守るべき人は誰か

 今回の研究を通じて、私は一つの問いを強く持ちました。
組織は、成果を出す人を守っているでしょうか。
それとも、正しいことを言う人を守っているでしょうか。
私は後者だと思います。

品質を守ろうとする人。
患者を守ろうとする人。
顧客を守ろうとする人。
ルールを守ろうとする人。
そういう人が安心して働ける組織こそ、本当に健全な組織です。
逆に、そうした人が辞めていく組織では、残るのは沈黙だけです。
そして、その沈黙の先に、不正やハラスメントは育っていきます。

ハラスメント対策の本質

 私はこれまでの連載で、ハラスメントは個人の問題ではなく、組織の問題であると書いてきました。今回の研究は、その考えをさらに強くしてくれました。ハラスメント対策とは、加害者教育だけではありません。
相談窓口を設置することでもありません。本当に必要なのは、正しいことを言う人が、安心して働き続けられる組織をつくることです。
そのためには、倫理的な行動を守り、評価し、報いる文化が必要です。それがなければ、組織は誠実な人から順番に失っていきます。

おわりに

 私はこの発表を聞きながら、「組織は誰を守るのか」という問いを、何度も自分自身に投げかけていました。
不正を見逃す人でしょうか。
沈黙する人でしょうか。
それとも、「それは違う」と言える人でしょうか。
組織の未来は、その答えで決まるのだと思います。

 そしてこの問いは、脆弱性のパラドックス一つに留まりません。
今回、6回にわたって書いてきた各回のテーマ、社会的伝染、PSC、ボトムライン思考、いじめの生産性仮説、ダークリーダーシップ、逆機能の凝集性、そのすべてが、結局はこの一つの問いに集約されます。

組織は、誰を守るために存在しているのか。

最後に

 今回の学会を通じて、私がもっとも強く感じたのは、ハラスメントや職場いじめを「誰が悪いのか」という問題だけで捉えていると、本質を見誤るということです。もちろん、加害行為を放置してよいという意味ではありません。しかし、問題が繰り返される職場では、個人の言動の背後に、相談しにくさ、見て見ぬふり、リーダーの孤立、報告の遅れ、制度の形骸化といった、組織全体の兆候が積み重なっています。

 重要なのは、事件が起きてから対応することではなく、事件になる前のほんの些細なサインを読み解く力です。ハラスメントは、単なる人間関係の問題ではありません。組織の心理的安全、ガバナンス、リーダーシップ、そして人を大切にする価値観が、どれだけ機能しているかを映し出すサインでもあります。だからこそ、これからのハラスメント防止は、職場の空気を読み、声にならない違和感を拾い、組織がどこで人を追い詰めているのかを見抜く視点が必要です。
 今回の学びを通じて、私は改めて、ハラスメント防止を「組織の健康診断」として捉え直す必要があると感じました。

 キャンベラの広大な大地の一角にある国立大学の構内で、世界中の国と地域から集まった研究者や実務家が、職場のハラスメントやいじめの問題に真剣に向き合っている。その光景には、大きな心強さを感じました。

 そして最後に、6月のキャンベラは本当に寒かった。学会で得た学びも深く沁みましたが、寒さに震えながらホテルに戻り、日本から持ってきた味噌汁を飲んだ瞬間、その温かさもまた、しみじみと心に沁みました。

キャンベラで出会った多くの先生方、研究者の皆さまに、心から感謝します。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。 
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#PCS
#ハラスメント防止
#経営者のハラスメント責任

オーストラリアのハラスメント学会で考えた、日本企業の課題【第5回】 魚は頭から腐る-ハラスメントを生む組織は、どこから壊れ始めるのか

 前回は、ダーク・リーダーシップのもとで生まれる「逆境による連帯」について書きました。一見すると仲がよく、助け合っているように見えるチームでも、その結束が共通の目的ではなく、共通の恐怖や不満から生まれていることがある。つまり、「仲がいい職場」と「健全な職場」は同じではない、という話でした。

今回取り上げたいのは、そのさらに上流にある問題です。職場のいじめやハラスメントは、どこから生まれるのか。現場の上司なのか。加害者個人の性格なのか。部下との相性なのか。もちろん、そうした要素もあります。しかし、アデレード大学のMay Young Loh氏の発表を聞きながら、私は改めてこう感じました。職場の問題は、現場だけで起きているのではない。組織の価値観が、上から下へと流れているのだ、と。

発表の中で印象的だったのが、「魚は頭から腐る」という表現でした。組織の腐敗や不健全さは、現場の末端からではなく、トップの価値観や優先順位から始まるという意味です。

ハラスメントは個人の問題なのか

多くの企業では、ハラスメントが起きると、まず個人に目が向きます。あの上司の言い方が悪い。あの部下との相性が悪い。あの管理職のコミュニケーション能力に問題がある。もちろん、個人の行動を見直すことは必要です。しかし、それだけで終わってしまうと、本当の問題を見落とします。

なぜ、そのような行動が許されていたのか。
なぜ、周囲は止められなかったのか。
なぜ、相談しても変わらなかったのか。
なぜ、数字を出す人なら多少の問題行動が見逃されたのか。

そこを見なければ、同じ問題は繰り返されます。

Loh氏の発表は、職場でのいじめや不当な扱いを、個人の性格ではなく、マネジメントの価値観と組織システムの問題として捉えていました。私はここに、日本企業が学ぶべき大きな視点があると感じました。

PSCは「原因の原因」である

今回の発表で中心にあったのが、PSCです。PSCとは、Psychosocial Safety Climate、ここでは、会社は本気で自分たちの心の安全を守ってくれると、全社員が実感できている組織の文化、風土のことです。日本語に直訳すると、心理社会的安全風土。オブラートに包まずに言い換えれば、ハラスメントを撲滅するか否かを決める、経営陣の覚悟と制度です。もっと簡単に言えば、この組織は従業員の心理的健康を本気で守ろうとしているか、という組織全体の空気です。

ただし、これは単なる職場の雰囲気ではありません。仲がいい、話しやすい、相談しやすい。それだけではPSCとは言えません。PSCは、従業員の心理的健康を守るための方針、実践、手続きが、組織の中でどれだけ共有されているかを示すものです。つまり、仕組みの問題です。

Loh氏の発表では、PSCは「Cause of the Causes」、原因の原因と位置づけられていました。ハラスメントが起きる。メンタル不調が増える。離職が増える。現場が疲弊する。多くの企業は、そこで初めて対応します。しかしPSC研究は、そのさらに前を見ます。なぜ、そのような職場になったのか。なぜ、過度なストレスが放置されたのか。なぜ、管理職が部下を守れなかったのか。なぜ、心理的健康よりも生産性が優先されたのか。ここに目を向けるのです。

生産性か、人間か

この研究が突きつけていたのは、非常に厳しい問いでした。あなたの組織は、生産性を優先しているのか。それとも、人間を優先しているのか。もちろん、企業にとって生産性は重要です。利益も必要です。成果も必要です。しかし問題は、生産性そのものではありません。問題は、生産性が人間より上に置かれることです。

過度な成果主義。過剰な内部競争。短期的な数字への圧力。結果を出せば多少のことは許される、という空気。こうしたものが積み重なると、いじめやハラスメントは単なる逸脱行動ではなくなります。成果を最大化するための手段として、事実上それが機能してしまうことがあります。発表では、これを「いじめ生産性仮説」として紹介していました。人間のニーズが軽視され、極端な生産性圧力がかかる環境では、いじめが労働を統制するための機能的なメカニズムになり得る。これは非常に重い指摘です。

会社が公式にハラスメントを認めることはありません。しかし実際には、強く詰める人が評価される、部下を追い込んでも数字を出せば許される、現場が疲弊していても結果が出ていれば問題視されない、そうした職場では、ハラスメントは禁止されているのではなく、黙認されているのかもしれません。

トップの価値観は現場に落ちてくる

組織の価値観は、言葉ではなくシグナルとして現場に伝わります。経営トップが何を評価するのか。どの行動を昇進させるのか。どの管理職を重用するのか。どの問題を見逃すのか。どこに予算をつけるのか。何を仕方ないとするのか。それらはすべて、現場へのメッセージになります。

経営層が「人を大切にする」と言っていても、実際には数字だけで評価していれば、現場はそれを学習します。経営層が「ハラスメントは許さない」と言っていても、数字を出す管理職の問題行動を見逃していれば、現場はそれを学習します。経営層が「心理的健康は大事だ」と言っていても、人員不足を放置し、過剰な目標を課し続ければ、現場はそれを学習します。つまり、現場の管理職は、トップの建前ではなく、実際に報われる行動を見ているのです。魚は頭から腐る。その言葉の意味は、まさにここにあります。

良い上司も、悪い空気には勝てない

多くの企業は、ハラスメント対策として管理職研修を行います。もちろん、管理職研修は必要です。しかし、Loh氏の発表で重要だったのは、管理職の有効性は組織全体のPSCに左右されるという点です。

PSCが高い組織では、管理職は部下を守ることに自信を持てます。部下の心理的健康を守る行動が、組織から評価されるからです。過度な生産性圧力から部下を守っても、それが管理職として正しい行動だと認められるからです。一方、PSCが低い組織では、良い上司であっても部下を守りにくくなります。部下を守れば、自分が甘いと見られる。目標達成を優先しなければ、評価されない。人を守る行動が、組織から報われない。そうなると、管理職は板挟みになります。本人に良心があっても、組織の空気がそれを無力化してしまうのです。

だから私は、管理職研修だけでハラスメント対策を終わらせることに違和感があります。管理職個人に「部下を大切にしなさい」と言いながら、組織全体では数字だけを徹底的に追わせる。これでは、現場の管理職を苦しめるだけです。

個人のレジリエンスに逃げてはいけない

最近は、従業員のレジリエンスを高める研修も増えています。ストレスに強くなる。折れない心をつくる。困難を乗り越える力を身につける。もちろん、個人の力を高めることは大切です。しかし、それを組織の責任回避に使ってはいけません。
燃え盛る火の中に人を置いて、熱さに耐える力を身につけましょうと言っているだけになっていないか。私はそこを問いたいのです。PSC研究が示しているのは、個人を鍛える前に、環境を変えなければならないということです。過度な仕事量。矛盾した評価制度。機能しない相談窓口。報復を恐れて声を上げられない空気。数字を出せば何をしても許される文化。これらを放置したまま、個人のレジリエンスだけを高めようとするのは、順番が違います。

ハラスメントは経営リスクでもある

今回の発表では、職場での不当な扱いがもたらす経済的損失にも触れられていました。世界全体で、多くの従業員が職場で不当な扱いを経験しており、それによる生産性低下は非常に大きな規模にのぼるとされています。従業員5,000人規模の組織でも、病欠、離職、生産性低下によって年間数百万ドル規模の損失が生じるという試算が、参考値として示されていました。

つまり、ハラスメントは倫理の問題であると同時に、経営の問題でもあります。人が壊れる。現場が疲弊する。優秀な人材が辞める。サービス品質が落ちる。事故やミスが増える。採用ブランドが傷つく。それらはすべて、組織のコストになります。にもかかわらず、多くの企業はハラスメントを人事の問題として小さく扱いがちです。私はここにも、日本企業の大きな課題があると感じます。ハラスメントは人事の問題ではありません。究極は、経営の問題です。

本当に見るべきもの

ハラスメントが起きた時、本当に見るべきものは何でしょうか。加害者の性格だけでしょうか。被害者の受け止め方でしょうか。管理職のスキル不足でしょうか。もちろん、それらも見る必要があります。しかし、それだけでは足りません。本当に見るべきなのは、組織の上流です。
トップは何を優先しているのか。どんな管理職が評価されているのか。部下を守る行動は報われているのか。相談制度は本当に労働者を守るために機能しているのか。生産性の圧力から人を守る仕組みはあるのか。PSCは、こうした問いを組織に突きつけます。だから私は、PSCを単なるメンタルヘルスの概念としてではなく、組織の健康診断、さらにはガバナンス指標として見ています

おわりに

職場のいじめやハラスメントは、突然生まれるわけではありません。それは、組織の価値観が積み重なった結果として現れます。人より数字を優先する。部下を守る管理職が評価されない。問題を指摘する人が煙たがられる。相談制度が組織防衛のために使われる。そうした小さなシグナルが積み重なることで、職場の空気はつくられていきます。

魚は頭から腐る。この言葉は厳しいですが、組織を見るうえで非常に重要な視点だと思います。そして同時に、希望もあります。頭から腐るのであれば、頭から変えることもできる。経営層が本気で価値観を変えれば、組織の空気は変わります。組織の空気が変われば、管理職の行動が変わります。管理職の行動が変われば、現場の経験が変わります。

ハラスメント対策は、加害者教育だけでは終わりません。相談窓口を置くだけでも終わりません。本当に必要なのは、組織が何を大切にするのかを問い直すことです。

あなたの会社は、従業員を「成果を出すための道具」として見ているでしょうか。それとも、「守るべき人間」として見ているでしょうか。その答えこそが、組織のPSCを決めているのだと思います。


この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。 
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

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