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上司に弱音を吐けない職場がパワハラを生む?感情を表現する「言葉」を持たない若者たち(前編)

職場で気軽に「死ぬ」という言葉を使う!?

最近、企業の方からこんな話を聞きます。
「最近の若い人は、職場で気軽に『死ぬ』という言葉を使うんですよ」

「最近の若い者は…」で始まる若者批判は、昔から繰り返されてきたものです。
「言葉が乱れている」とか、「ボキャブラリーが乏しい」といった指摘も、50代以上の世代の方なら若い頃に言われた記憶があるのではないでしょうか。
例えば、1990年代には「チョベリバ」(超ベリーバッド)なんて、今ではすっかり「死語」です。

それでも、「死ぬ」とはやはり物騒。
どうして今の若者は、そんな言葉を職場で使うのでしょうか。

「私は自己肯定感が低い」という若者たち

あくまで推測ですが、一因として、自分は自己肯定感が低いと自覚しているケースが多いことが関係しているのかもしれません。ではなぜ、そう感じるのでしょうか?

その理由を私なりに分析してみると、1つは彼らが「この先、日本の景気や社会がどんどんよくなる」という実感を持ったことがないから。
時代の空気から受ける影響は、少なからずあるはずです。

もう1つは、SNSの影響。
スマホを覗けば、そこには誰かのキラキラした日常やポジティブな言葉があふれている。それに比べたら、自分の日常が色あせて見えたとしても無理はありません。関係性の薄い知り合いや、会ったこともない人と自分を比較して、「自分なんてダメだ」と思わされてしまうのは、SNSの負の側面といえるかもしれません。

ネガティブな感情を適切な言葉で表現できない

「死ぬ」と言ってしまうのは、適切な言葉が見つからないから。
「死ぬ」と口にしても、本当にそうなりたいわけではない。
ただ、つらい感情をどう表現すればよいかわからず、結果として極端な言葉を使ってしまう。そんなケースが少なくないように感じます。
このように彼らが「死ぬ」と口にするとき、必ずしも言葉通りの意味を伝えたいわけではないのだと思います。

いわゆるいい大学を出て、いい会社に勤める人でも、自分の感情を言葉で表現するのが苦手な人がたくさんいます。知識もあるし、論理的思考も得意。だから仕事の話はスラスラできるのに、自分の感情を表す言葉はうまく出てこない。そういう人は、年代に問わず共通の課題のように感じます。

特に職場では、「つらい」「悲しい」などのネガティブな感情は、表に出してはいけない考えられがちです。「プロらしくない」と思われます。仕事の場では、個人的な感情は自分の胸の中に押し込めておかなければならないもの。それは、若い世代だけではありません。
現在40代、50代の人たちも、さらにその上の世代の人たちも、個人的な感情を押し殺し、つらいときも歯を食いしばって耐えてきたのです。

適切な言葉を与えられずに押し殺された感情は、「死ぬ」というセンセーショナルな言葉となって、あふれてしまうのだと思います。

感情は「液体」。だから、言葉という「器」が必要

自分で自分の中にあるネガティブな感情に気づくためには、自分が思っていること、感じていることを言語化する力が必要です。

青森県にある恐山菩提寺で院代(住職代理)を務める南直哉さんが、(2024年8月17日)Yahoo!ニュースオリジナル特集編集部のインタビューでこう話しています。
「感情というのは『液体』だ」と。「器に入れてはじめて、色やにおい、重量がわかる。つまり、アウトプットしてみなければ、自分に起こっていることがわからないのだ」

「感情というのは液体」という表現は、とても印象的です。液体のように形のない感情は、「言葉」という器に入れて初めて意味が与えられる。自分の感情を自分で把握するためにも、言葉は必要です。

南さんに会いに来た30歳の男性は、一流大学を出て大企業に就職し、将来を嘱望されているエリートコースを歩んでいるにもかかわらず、会社に行けないという。理由を聞いても何も言わない。自分の感情を言葉で表すことができない。
そこで南さんが、「あなたが言いたいのはこういうことではないですか」と言葉にすると、彼は、
「なぜわかるんですか、さすがお坊さん、神通力ですか」と驚いたそうです。

弱音を吐けることが、職場の信頼を生む

自分の感情をうまく言語化できないのは、慣れていないから。
特に男性には、子どもの頃から「感情を言葉にするなんて、恥ずかしいことだ」と刷り込まれている人が多い。たとえば、職場で上司に「つらい」などと弱音をはくわけにはいかない、と自分を縛っている。

そういう人が、自分の感情を言語化できるようになるにはどうすればいいのでしょうか。それには、南さんが言うとおり「アウトプット」するといい。液体のように形のない自分の感情に、言葉という器を用意するのです。

誰かに話して聴いてもらってもいいし、文章にして書き出してもいい。とりとめのない話や文章でいいから、言葉にして発信することで、感情にふさわしい器が見つかりやすくなります。

それには、「どんなにネガティブな感情も、言葉にしていいんだ」と自分にOKを出すことが大切かもしれません。

だからこそ、令和の今、職場でも、間違っても「弱音を吐くな」「グチをこぼすな」などと言ってはいけない。もう時遅れ。
上司と部下がどちらも弱音を吐くことができ、そしてそれを受け止め合える信頼関係であれば、安心して仕事の相談もできるというもの。

そういう信頼関係という名の土壌を職場で耕すことが、ハラスメントを防ぐことにつながる鍵になるのではないかと私は思います。

「令和」の東京、地方へ行くと「江戸時代」?! 〜人を追い詰める”善意”のハラスメント〜

「ハラスメント」という概念が社会に浸透し、老若男女問わず「セクハラ」「パワハラ」というワードを聞いたことがない人はほとんどいないでしょう。小学生でも知っている時代です。

ハラスメント問題が難しい側面のひとつに、「する側」が無自覚であるケースや、価値観の対立から生まれることは、すでに多くの方が指摘している通りです。

人は誰しも、自分なりの「常識」や「正しさ」を持っています。それは世代や地域、環境によって異なり、ときにそのズレが相手を深く傷つけ、関係を壊す”ハラスメント”につながることがあります。

とりわけ職場のハラスメント問題を考える際に、私がそのギャップを強く感じるのは、「都市部で暮らす人」と「地方で暮らす人」の間に横たわる価値観の違いです。

地方から女性が消えていく現実

2024年に放送されたNHK「クローズアップ現代」の特集『地方から女性が消えていく⁈ 当事者の本音聞いてみた』(2024年6月17日放送)をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。

番組によると、2050年までに全国で744の自治体で若年女性の人口が半数以下になり、「最終的には消滅する可能性がある」という衝撃的な推計が発表されたとのこと(「人口戦略会議」より)。

もちろん、この事態に国も自治体も手をこまねいているわけではありません。国は2014年以降、「結婚・出産・子育て」支援のために自治体に交付金を支給しています。国の後押しを受けて、多くの自治体で子育て支援などを充実させています。

それでも20代・30代の女性の流出は止まりません。ある町で婚活イベントを企画したところ、42人の申し込み者のうち、女性はたった5人だったそうです。

「やりがいのある仕事がない」と地元を出る若い世代

この特集を見て、「いやいや、婚活イベントの前に、もっとやることがあるだろう」と言いたくなったのは、私だけではないはずです。

地方から女性たちが出て行くのは、そもそもそこが女性にとって生きにくい社会だからです。「女性には早く結婚して子どもを産んでもらいたい」という「圧」が、女性たちを苦しめていることにどうして気づかないのでしょうか。

番組では、当事者である女性たちの声が紹介されていました。彼女たちが地元を出ていく、あるいは出ていかざるを得ない理由として挙げていたのは以下のようなものです。

  • 「将来のキャリアを描けるような、やりがいのある仕事がない」
  • 「独身や子どもを持たない女性向けの支援がない」

ある女性がおっしゃっていた「東京が令和だとしたら、地方は江戸時代」という例えはとても印象的でした。

江戸時代?決しておおげさではありません。地方へ行くと、いまだに人が集まると、男性が座敷にデンと座って飲み食いする一方で、女性は台所で料理をして配膳をしている…という前時代的な光景をよく見かけます。

女性の足を引っ張るのは女性?

このように地方では、東京ではあり得ない価値観が幅をきかせていることに驚かされます。番組でも、こんな声が紹介されていました。

  • 「営業がやりたいのに、男性の補佐的な仕事しか任されない」
  • 「仕事をがんばりたいのに、早く結婚して子どもを産んで、という文化がある」

こんな不満を、上司にはいいづらいでしょう。

さらに女性たちを追い詰めるのは、前時代的な価値観を押し付けてくるのが男性ばかりではないことです。番組にも、母親や祖母から以下のようなことを言われている20代の女性が登場していました。

  • 「女はそんなに一生懸命働かなくていい、いい人を見つけて早く結婚して」
  • 「女は結婚して子どもを持ってやっと一人前」

悪意はないのかもしれません。けれど、それが”常識”という名の重圧となって、若い世代を静かに追い詰めていると私は思います。

うちの会社は、上司は「お父さん」、部下は「子どもたち」

会社でも同じことが起きています。日本には家族主義的な雰囲気の会社、社員数が少なくいわゆるアットホームな感じを醸し出す組織があります。否定はしませんが、その雰囲気や関係性が行き過ぎることで、ハラスメントの温床になり得るのです。

例えば、上司が「親」、部下が「子ども」といった関係性が暗黙のルールとなり、社内でのコミュニケーションでは以下のような行為が日常茶飯事になることもあります。

  • 「呼び捨て」や「キツイ言動」
  • 「バカにする言動」「見下す言動」
  • 「体型容姿をいじる言動」

また、馴れ合いから、セクハラ的な発言をした方が上司部下の関係性が近くなる、親密な関係になれると勘違いしている組織もいまだにあるのです。

職場は、家族ではない

職場のメンバーは家族ではありません。あくまでチームとして、組織の目標やビジョンを叶えるために縁があって集った、世代も価値観も異なるメンバーの集まりですから、そこに馴れ合いは必要ないのです。

甲子園の夏の高校野球の監督のインタビューを見ていても、昭和世代の監督は生徒のことを「うちの子どもたち」と呼び、無自覚で子ども扱い。令和の監督は「うちの生徒たち」と役割で呼ぶのです。些細なことかもしれませんが、呼び方ひとつで、そのチームの風土や監督の価値観が分かってしまうものです。

「親しき中にも礼儀あり」

こんな当たり前のことを、再確認しなければいけない大人たちに虚しさを覚えます。

価値観をアップデートできない人や組織の末路

結婚や出産に関わらず、「社会の一員として、やりがいのある仕事をしたい」という思いは、男性も女性も変わらないはず。それなのに、家族や地域が足を引っ張り、女性の生き方の幅を狭めているとしたら?そんな社会で「結婚して子どもを産みたい」と考える女性が増えるはずがありません。

時代の変化に合わせて価値観をアップデートすることを拒む人や、そういう人ばかりが幅をきかせる組織は、当然のことながら自然と淘汰されていくのでしょう。これは企業であろうと行政体であろうと同じことです。

ひょっとしたら、あなたの”常識”が、誰かの自由を奪っている可能性があるのかもしれません。

古い価値観にしがみついたまま消えていくか、価値観を今の時代に合わせて生き残るか。選ぶのはあなた自身です。アップデートしない限り、「多様性」も「ダイバーシティ」といった言葉も、虚しく聞こえます。

 社会と職場に蠢く闇の正体とは!?

冒頭「婚活イベントの前に、もっとやるべきことがある」と言いました。『地方から女性たちが出て行くのは、そもそもそこが女性にとって生きにくい社会だからです』

このフレーズを組織に置き換えると、『会社から社員が出ていくのは、そもそもそこが社員にとって働きにくい、居心地の悪い組織だからです』とも言えます。

今も、マタハラ、セクハラ、パワハラなど、国などに寄せられるハラスメントの相談は一向に減りません。ハラスメント問題が職場で起こるメカニズムも、地元を離れる若い世代の話と同様に感じます。この問題の根底に蠢く闇の正体を、今回の番組の特集を通じて垣間見たような気持ちになりました。

あなたは、どちらを選びますか?

「8時10分前集合って何時のこと?」— 世代間ギャップとハラスメントの関係

「8時10分前集合」は何時?最近、テレビやXでも話題になっている時間の捉え方の問題をご存じの方も多いのではないでしょうか。

世代でズレる”当たり前”が、実はハラスメントにもつながるという話があります。

「明日は8時10分前集合ね」と言われたので、8時5分に到着。

しかし先輩から「なんで遅いんだよ!」と怒られてしまいました。

「え?言われた通り来たんですけど…」
「そもそも”8時10分前”って、何時なんですか??」

そんな戸惑い、あなたもどこかで感じたことがあるかもしれません。

実はこの「8時10分前集合」、世代によって”まったく違う時間”を意味しているという衝撃の事実があります。そしてこの”ちょっとしたズレ”が、実は職場でのハラスメントの火種にもなりうることをご存じでしょうか。

今回は、時間感覚のズレから始まる「価値観の違い」と、そこから学べるハラスメント防止のヒントを探っていきます。

昭和世代の解釈:8時「の」10分前=7時50分

昭和世代の多くは、「8時10分前」と言われたら「8時の10分前」、つまり7時50分集合だと考えます。

この解釈の背景には、「時間厳守こそ礼儀であり、時間に遅れる=信頼を失う」という考えが染み付いています。昭和生まれの私としては、「10分前行動」は幼稚園の頃から当たり前のように習ってきた習慣です。社会通念として、今でも強く根付いています。

そのため、ビジネスシーンでも、たとえばリモート会議で10時開始の際に、10時ちょうどに入ると参加者が全員揃っていることもよくある光景です。10時に入ると気まずい雰囲気になることもあります。通信環境の問題もあるので、そこまで目くじらを立てる人は少ないですが、明らかに不機嫌な顔をしている人がいるのも事実です。

営業訪問やリアルでの会議では、やはり習慣的に10分前、5分前集合が当然とされています。私の大先輩は「1時間前には相手先に着いているのが当然だ!」という人もいました。相手から時間をいただいている以上、待たせては「絶対にいけない」という強い信念があるようです。

このように「集合は10分前が当たり前」と教えられ、社会に出ても「言われなくても早く来い」が常識だった時代なのです。

若い世代の解釈:「8時10分の”前”」=8:00〜8:09頃

一方、10〜20代はどうでしょうか。メディアでは、このように取り上げられていました。

「8時10分前集合」と言われたら、「8時10分の前…つまり8時5分くらい?」と直感的に解釈し、8時〜8時9分の間に着けばいいと考える人が多いのです。

一瞬、私はフリーズしました。

その背景には、様々な考え方があるようですが、「10分前に来い」と言われること自体が減った(言い方によってはハラスメントと感じられる)といった現代の空気感があるとの解説がありました。

アンケートで見えた、世代間の”ズレ”

北海道テレビの情報番組では、実際に50人に「8時10分前集合って何時のことだと思いますか?」と尋ねたところ、こんな結果になったそうです。

  • 10〜20代:8:00〜8:09頃集合 78% / 7:50集合 22%
  • 昭和世代:7:50集合 100%

若者の約8割が「8時前後に着けばOK」と考えている一方、昭和世代はほぼ全員が「7時50分」と答えています。この差は、部下を指導する上司としては気になるところです。

「時間の常識」が時代によって変わったのです。もちろん、私の周囲の大学生や高校生に話を聞いても、7時50分という人もいたので、内心安心しました。不思議なのは、小学2年生の頃に時間の授業があったと思いますが、実生活でこの言葉を使う機会が10~20代では減ったのか、定着していないとのこと。個人的にはまだモヤモヤします。

待ち合わせ時間に、ハラスメントの”芽”がある!?

たとえばこんなシーン、思い当たりませんか?

  1. 新人に「8時10分前集合ね」と伝えた上司
  2. 部下は8時3分に到着
  3. 昭和世代の上司が「遅い!常識がない!」と叱責
  4. 本人は「言われた時間どおり来たのに…」と戸惑う
  5. 結果、お互いにモヤモヤが残る

このように、価値観のすれ違いを「常識でしょ」と押し付けてしまうと、パワハラと受け取られてしまう可能性があります。「こんなことで」と思った方も多いかもしれません。

ハラスメント防止の鍵は「価値観の違い」に気づくこと

ハラスメントの多くは、「わかってくれて当然」という思い込みから生まれます。

しかし、時代も育ってきた環境も、使っているツールさえも違えば、相手の「当たり前」が違うのは当然です。

「わかってほしい」より、まず”わかろう”としているか?

今回の時間の問題についても、まず「おかしい」とバッサリと切り捨てることは簡単ですが、「面白い!」「そういう見方もあるんだ」「どうしてそう思うの?」と興味・関心・好奇心を忘れずに対話して歩み寄ることは、いつの時代も大切ですね。あなたが「おかしい」と感じた、その20代の部下は、いつかはあなたの上司になるかもしれません。

但し、ビジネスの世界では、待ち合わせは、正確さが求められるわけですから、不安に感じたら「何時何分ですよね?」とハッキリ互いに確認した方がよいと私は思います。遠慮は不要です。

価値観の厄介さ―昔の価値観が「伝統」にすり替えられる怖さ

この価値観の問題は、今回は時間をテーマにしていますが、組織などでは古い価値観を「伝統」にすり替えて、新しい価値観から目を背けようとする人たちもいます。

「うちは何十年もこのやり方でうまくやってきたんだ」

このように、旧来のやり方で成功体験があればある組織ほど、変化を受け入れることに抵抗がある傾向があります。

「昔のやり方がよかった。今のやり方は一見新しいように見えるけど受け入れられない」という回顧主義になり、過去に固執するケースもあり得ます。

その結果、退職などで人が流出してしまうことで、「古き良き価値観」を継承する人もいなくなってしまうこともあり得ます。

新入社員のみなさんへ

「言われた通りやったのに怒られた」
「空気読めって…何を?」

そんな経験があるかもしれません。

でもそれは、あなたが悪いわけではありません。ただ「わかり方の違い」—理解の仕方、受け止め方に違いがあっただけなのでしょう。

だからこそ、伝える側も受け取る側も、お互いの前提をすり合わせることが何より大切です。しかし、思った言葉を伝えないと、本当の想いは届きません。「ヤバい」「パワハラっぽい」など、SNSで溢れかえる言葉を使って表現しても、上司には届かないかもしれません。

具体的にどうして欲しいのか、何に困っているのかを伝える力を磨くことは、お互いの誤解をなくしていくために大切なことですね。繰り返しになりますが、今回の時間に関する問題は、不安に感じたら「何時であっていますか?」と質問すれば済む話です。そこには遠慮は不要です。「こんな質問して、笑われたらどうしよう」そんな思いは捨ててください。あとで揉めるよりもよっぽど大事なことです。

最後に

「8時10分前集合」って、あなたなら何時に行きますか?

今回のこの問題の答えは、単なる時間でもありながら、一方であなたの価値観そのものです。

そして、相手の答えに「そう考える人もいるんだ」と思えたなら、もうそれだけでハラスメント防止のスタートラインに立っています。

「わかってほしい」より「わかろうとする」
そして、お互いにしっかりと「確認」をすればよいのです。

その姿勢が、信頼もチームも育てていくのです。

そのきっかけは、相手の気持ちに耳を澄ますことかもしれません。

体育の授業は逃げられなかった。パワハラ上司からは、逃げてもいいですか? 「体育の授業が大嫌い」ヒャダインさんのエッセイに思う 【後編】

元体育教師の教授がヒャダインさんに反論?

前号に引き続き、SNSで話題になった音楽プロデューサーのヒャダインさんが、体育専門誌『体育科教育』(大修館書店)に寄稿したエッセイを取り上げます。
「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」
というセンセーショナルなフレーズから始まる文章で、旧来の体育の授業のあり方に一石を投じています。

このエッセイが掲載されたのは『体育科教育』2019年3月号です。2024年12月にXで紹介されたことで、改めて注目されました。すると、2025年2月号『体育科教育』の巻頭に、「緊急企画」としてこのような文章が掲載されたのです。
タイトルは、「『僕は体育の授業が大嫌いです』ヒャダインさんのエッセイに対して体育教師が考えること:Xでの反響を受けて」。

「これは読まねば!」と衝動にかられた私は、早速『体育科教育』を取り寄せてました。
この文章を書いたのは、和光大学教授の制野俊弘さん。ご自身も中学校の体育教師としての経験があり、大学で体育教師を目指す学生の指導をされています。まさに体育教師のリーダー的存在の制野さんが、ヒャダインさんのエッセイに対してどのような反論をするのか。私はドキドキしながらページをめくりました。

体育教師を目指す学生が書いた「ヒャダインさんへの手紙」

すると驚くことに、制野さんは文頭で
「これまで多くの体育嫌いを生み出してきた体育教師の1人として、まずは平身低頭で謝罪させていただきます」
と謝っているのです。さらに、
「体育の授業は人間形成において学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要や役割をどのへんに秘めているのであろうか」
という、ちびまる子ちゃんのセリフを引用して、
体育という教科を「私たちはどう自分事として引き受けていくのか」と自問しています。

これが体育教師の卵の本音!?

制野さんは、大学の保健体育科教育法の授業でヒャダインさんの記事などを取り上げ、学生たちに「ヒャダインさんへの手紙」を書かせているとのこと。

学生たちは、
「体育が嫌いなのは恥をかかされるからというのは、本当にその通りだと思います」と理解を示しながらも、
「嫌いでもやってみたい、楽しそうだから少し参加してみたいと思えるような場づくりから授業を始めるべき」とか、
「クラスのみんなで授業を行う意味をもっと考えてほしい」とか、
制野さんいわく
「結局は、無邪気な『体育擁護論」に行き着く」のだそうです。

人の価値観は、そう簡単には変わりません。虚しさを漂わせている制野さんに、私はひどく共感を覚えます。

制野さんは、「教科としての体育は本当に必要なのですか。体育は何を教え育てる教科なのですか」と疑問を呈し、
「それを考え抜くことが生涯を懸けた問いであると肝に銘じたい」
と文章を締めくくっています。

学校でも会社でも、唯一絶対の「教育」方法に正解はありません。みんなが正しいと信じていた価値観も、時代とともに変わっていきます。だからこそ、現状に疑問を持ち、考えることを諦めないことが大事なのではないでしょうか?

しごかれなくてもプロになれる。

厳しいスパルタ的指導が想像されるスポーツの世界の指導のありかたはどうでしょうか?2024年に開催されたパリオリンピックでは、ブレイキン、スケートボードといった新しい種目で、10代、20代の日本選手たちが続々とメダルを獲得しました。

想像ですが10代の彼らは、昭和の「しごき」文化を知りません。「しごき」がなくても世界の一流になれることを証明しています。近年、頭角を現しているアスリートの周りには、たくさんの優秀なサポートチームがついています。
コーチング、メンタルトレーニング、メンテナンス、栄養士、チームドクターなど、それぞれの分野の専門家が、デジタル技術を駆使してサポートしているようです。それぞれの役割が明確であり、しかも適切な距離がある。高校野球の世界も昭和の頃とは様変わり。企業でも、社員の育成に「AIによるサポート」が導入されているところもあります。
従来のように「上から下への指導」「いいからやれ」的な一方的な指導はなく、対等な立場で本人の目標や、やりたいことをサポートする。

組織である以上、仕事において上から下への指示が行われるのは自然なことです。
しかし、育成という観点においては、「指導する」よりも「支援する」スタンスの方が、より高い成果を生むことが明らかになってきました。これは、社員育成の新しいスタンダードとして、もはや疑う余地のない発想の転換です。

にもかかわらず、少子化や若手の早期離職、管理職志向の低下、さらには70代・80代の部下の存在といった現実がありながらも、日本の多くの組織は、育成の在り方を大胆に見直す決断ができずにいます。その動きの鈍さには、歯がゆささえ感じます。

これからの時代、私たち一人ひとりが「育成とは何か」を真剣に見つめ直し、未来志向で人に投資できるかどうかが、組織に本気で問われています。
それは働きやすい職場、つまり、パワハラのない職場をつくる覚悟が本気であるかどうか。
その鍵は、私たち一人ひとりの手に委ねられているのです。

※引用はすべて『体育科教育』2025年2月号より

体育の授業は逃げられなかった。パワハラ上司からは、逃げてもいいですか? 「体育の授業が大嫌い」ヒャダインさんのエッセイに思う【前編】

  

学生の頃、体育の授業が好きでしたか?

「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」
という、思いきった「体育大嫌い宣言」から始まる文章が、SNSで話題になりました。書いたのは、音楽クリエイターのヒャダインさんです。
「頼むからそっとしておいてください」
というタイトルがつけられたこのエッセイは、2019年3月に体育専門誌『体育科教育』(大修館書店)に掲載され、2024年にX(エックス)で紹介されたことで、再び注目されました。

『体育科教育』は、体育の教師向けの専門誌です。
体育の教師を職業に選ぶということは、読者の多くは小さい頃から運動が得意だったのでしょう。体育の授業では、足も速くて球技も鉄棒も難なくこなし、クラスメイトから賞賛を浴びていたはずです。
そんな体育教師たちに向けて、ヒャダインさんは

「なぜあなた達体育教師は、
僕達にクラスメイトの前で恥をかかせようとするのでしょう?」
と問いかけます。

「手本のように上手に出来なくて(中略)バタバタと手足を動かす僕をクラスメイトが笑う」
「自分が圧倒的に足を引っ張ったせいで、気まずい雰囲気になったバスケの授業は今でも思い出します」
と、ヒャダインさんは体育の授業を振り返ります。


同じような経験をした人もいるのではないでしょうか?
運動が苦手な人にとって、みんなの前で逆上がりを何度もやらされたり、横並びで走らされたりした経験は、つらい記憶として刻まれています。

みんなの前で恥をかかされることで、運動が苦手な子は、ますます運動が嫌いになってしまう。学校で週に何度も体育の授業が設けられていても、それでは本末転倒。ヒャダインさんは、「体育」と「スポーツ」は同義ではない、としたうえで、
「体育で惨めな目にあうことで、スポーツまで嫌いになります」
と書いています。

もちろん、体育以外の科目が苦手な子もいますが、ほかの科目では体育ほど
「みんなの前で恥をかかされる」
場面は少ないといえます。算数の授業で、算数が苦手な生徒を黒板の前に立たせて、みんなの前でわからない問題を何度も解かせるなんてことは、まずあり得ませんよね。

上から目線の指導に「NO!」

このエッセイがXで紹介されると、多くの共感の声が寄せられました。
ヒャダインさんのエッセイがここまで注目された理由のひとつは、運動が苦手で、体育の授業で同じような経験をした人が大勢いるから。もうひとつは、このような声を上げる人が、これまであまりいなかったからかもしれません。

学校を卒業すれば、ほとんどの人は体育の授業からも解放されます。大人になれば、逆上がりができなくても、跳び箱が跳べなくても、人前で恥をかくことはありません。

「学校の体育の授業、いやだったな」
という思い出はそっと胸にしまわれて、普段は思い出すこともなくなります。

しかし、一方で職場には、跳び箱という名の「ノルマ」や「利益のプレッシャー」から逃れられない状況が厳然としてあります。
職場では「今日休みます!」と職場の隅っこで「見学」は出来ないのですから。

ヒャダインさんのエッセイが掲載された号のテーマは、
「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」
というものです。ヒャダインさんはこのテーマに触れ、
「『運動が得意な子は輝いている』と思ってるってことですよね? 上から目線の差別意識丸出しじゃないですか」
と書いています。

そう、これは「体育の授業」だけの問題ではありません。体育の授業で教師が
「よかれと思って」
生徒に押しつけていた価値観に、ヒャダインさんと彼のエッセイに賛同する多くの人が
「NO」
を突きつけたのです。

「今日の仕事は、楽しみですか?」

この「よかれと思って」を想起させる、非常に印象的な出来事が、
4年前の2021年、ある駅の大型ビジョンに現れた広告メッセージです。

一見ポジティブにも思えるその問いかけは、瞬く間に物議を醸しました。
「仕事を楽しめない人を責めているようだ」「これはディストピア」「仕事は楽しめなければいけないのか?」そんな声がSNS上にあふれ、大炎上。

よかれと思った「善意」のこの言葉は“楽しい”という価値観を押しつけるものと受け取られ、結果として、その広告はわずか1日で取り下げられることとなりました。「仕事は楽しいと思う人からの上から目線?」の差別意識と感じた人がいたのかもしれません。

この出来事は、どこかで見たような光景にも思えます。
教師が「よかれと思って」生徒に押しつけていた価値観「みんなでやるのが楽しいはず」「頑張ればできるはず」「苦手でも全力で取り組むべき」
そんな“正しさ”が、知らず知らずのうちに誰かを置き去りにしていた。

あの広告に感じた違和感は、ヒャダインさんの投稿とどこか重なるのです。

見直される「指導」「教育」のありかた

「できないヤツは、人前で恥をかかされても当然だ」
「悔しかったら、できるようになるまで努力するべき」
このような価値観が、いまだにまかり通っている組織はまだまだあるのではないでしょうか。
ミスをした部下をみんなの前で叱責する上司や、後輩に「やる気を出せ!」などと根性論をふりかざす上司・先輩は、令和の今でもいますよね。

もちろん、体育会系の人のやり方や考え方が、すべて間違っているとはいいません。スポーツに打ち込んできた人が持つ行動力や協調性は、社会で求められる資質といえるでしょう。

しかし、行き過ぎた「しごき」や「根性論」は、むしろ部下や後輩のモチベーションを下げてしまい、逆効果になります。学校の体育の授業と同じように、会社でも「指導」や「教育」という名のもとに、部下が壊れるような指導がゼロではありません。
それらを裏付けるように、パワハラの相談件数が右肩上がりであり、パワハラによる精神疾患に起因する労災認定が増加傾向にあります。

一方で、その指導のありかたが、今、本気で見直されているのです。

ヒャダインさんのエッセイは、改めて、パワハラを意識している、私たち働く大人たちにも、そのことに気づかせてくれたのではないかと私は思います。

※引用はすべて『体育教育』2019年3月号より

ハラスメント研修企画会議 主宰

株式会社インプレッション・ラーニング  代表取締役、産業カウンセラー。大学卒業後、アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修企画営業部門のマネージャーとして一部上場企業を中心にコンプライアンス、ハラスメント研修等を企画。2009年株式会社インプレッション・ラーニングを設立。起業後、企業研修プランナーとして「ハラスメントの悩みから解放されたい」「自分の指導に自信を持ちたい」「部下との関係性をよくしたい」……といったハラスメントにおびえながら部下指導に悩む管理職に年間200件のセクハラ、パワハラ研修を企画し、研修を提供。会社員時代の研修コンテンツでは決して企画することが出来なかった 「グレーゾーン問題」に特化したハラスメント研修を日本で一早く企画し実施。 起業後10年間で約2,000件、約30万人以上に研修を企画してきた。

部下が「ちゃんと」していないと、パワハラしたくなる人

家でも無自覚、職場でも無自覚な人

家で無意識にやっているその癖が、会社で自分は「ちゃんと」としているつもりでも、ついうっかり、職場で出る人っていますよね。

あなたは、部下が「ちゃん」としていないと、イライラしてしまいますか?
最近、私が気になるこの状況を「ちゃんとしないといけない病」名づけ、
略して「ちゃんと病」とパワハラについて考えます。

親が子供をしかる場面で聞こえてくる
「ちゃんとしなさい!!」
このコトバ、考えれば、考えるほど、「病」なのではないか?
と思うのは私だけでしょうか?

家では、お父さん、お母さんが子供に向かって、
「ちゃんと、宿題しなさい」
「ちゃんと、歯を磨きなさい」
「ちゃんと、玄関では靴を揃えなさい」
よく、こんな声が家庭から聞こえてきます。

会社にいくと、上司が部下にむかって
「ちゃんと、しろよ!」
「なんで、ちゃんとしないんだよ!!」
「もっと、ちゃんと仕事しろよ!!!」
よく、こんな声が職場から聞こえてきます。

「ちゃんとしなさい!」という病

この「ちゃんと」って何でしょうか?
そんなことを言うあなただって、若かりし頃は、胸を張って「ちゃんと」とした仕事をしていたのですか?と言いたい。そこは一旦脇に置いて、部下には「ちゃんと」を要求する人が職場には多いように思います。

あなたは、どうして部下に「ちゃんと」して欲しいのでしょうか?
そもそも、「ちゃんと」の基準って、一体、誰が測った基準なのでしょうか?
何を、どうして欲しいのですか?どうなってもらいたいのですか?

「ちゃんと」は、まるで「一切の反論を許さず、私の言う通りしていればいい」的なメッセージを言い換える、便利な言葉のようにも感じるのです。そして、そのなかば強制的な指示命令を「ちゃんと」という言葉を使って押し付けるのです。
最近、よく聞こえてくる不平不満を「パワハラ」というコトバで訴えるのと同じ構造のような気がします。

パワハラ上司はコミュ症か!?

 大きな声では言いませんが、具体的に、何をどうして欲しいのかを言わない限り、それは「コミュ力」がない証拠だと思います。
よく「コミュ症」という言葉を聞きますが、「ちゃんと病」も「コミュ症」の一種のようなもの。
 上司が、自分の意見を部下に受け止められるように、部下が具体的な行動をとれるように想いを伝えられない症状に、かかっていることが自分でも分からなのかもしれません。

「ちゃんとしろ」と言われた相手は、反論できません。
「だって、でも」 子供も部下も反論できません。
口答えをした日には、散々な目にあってしまいます。
部下の抵抗は、面従腹背ですね。

昭和も令和も「ちゃんと」してきた!?

 ここだけの話、私も、暗い過去があります。
小学2年生のとき、ある親父の行動に腹が立った私は、舌打ちをしたことがありました。 激怒した親父は、私の身体を突然ヒョイと持ち上げ、自宅にある納屋に閉じ込め、鍵をかけました。真っ暗で埃臭い納屋の中に、数時間閉じ込められた経験があります。
泣き叫んでも、誰も助けてくれません。いまでは、「THE虐待」ですね。
昭和はこれが許されたのです、、

最後には、なんとか納屋から出してもらい、私が「ごめんなさい」と泣き叫ぶ顔を見て誇らしげに「これからは、ちゃんとしなさい!!」といった言葉と満足感に満ちた顔が、今でも忘れられません。何回も閉じ込められました。

この状態を親は「コミュニケーションがとれている」或は「躾が成功した」と思っているから情けない。これでは「親の言うことが当たり前。褒められることをすることが当然 」がいつの間にか刷り込まれます。
そして、親の目を気にして生きる、呪いがかかるのです。
そして、上司や先輩や周囲の目を気にして生きる、呪いがかかるのです。

これに似たような経験をした、50代以上の皆さんは、思い当たる苦い経験はないでしょうか?

パワハラ防止のはじめの一歩

「ちゃんとしなさい!」
この呪いのようなコトバは、形を変えて令和の今でも、職場で、家庭にも潜んでいるように私は思います。
 部下の可能性を信じた上で、「相手の言い分にしっかりと耳を傾ける」ことや、伝える言葉を「具体的に、具体的」に扱うといった、どのコミュニケーションやコーチング本にも散々書いてある、当たり前のことが、頭では理解していても長年の癖で使えない人がいるように思います。

「ちゃんと」が普段使いになると、いつかその一言がエスカレートして「パワハラ」になる可能性があるかもしれません。注意を払いたいものです。

パワハラ防止のためにすべきこと。
今日から部下との会話に「ちゃんと」を使わないことを決めて、
一緒にはじめてみませんか?

料理には「ちゃんと、ちゃんとの味の素」
指導には「ちゃんと、ちゃんとの愛が基」

おあとがよろしいようで。 

怒ったら上司の負け!!!これが令和の部下指導。「監督が怒ってはいけない大会がやってきた」を読んで考えた。

 今回はそろそろ、新入社員が現場にやってくる時期にぴったりな1冊の本をご紹介したいと思います。
「『監督が怒ってはいけない大会をやってきた』益子直美他著(方丈社)」
本書を通じて、大人の組織でもパワハラを招かないように怒らずに叱る方法、部下とのかかわり方について考えていきたいと思います。

はじめに、本の袖から引用させていただき、著者の「一般社団法人 監督が怒ってはいけない大会」をご紹介します。


2015年1月に、福岡県宗像市で開催された「第1回 益子直美カップ 小学生バレーボール大会」をきっかけに、子供たちが「バレーが楽しい」と思ってもらいたいというメンバーの想いから「監督が怒ってはいけない」というルールを発案し「一般社団法人 監督が起こってはいけない大会」という組織が、3つの理念を掲げ、発足されました。


1 参加する子供たちが最大限に楽しむこと
2 監督(監督・コーチ・保護者)が怒らないこと
3 子供たちも監督もチャレンジすること
3つの理念をベースとして、バレーボールに限らず、今、様々なスポーツ団体から注目されています。

具体的にどのような取り組みをしているか、職場の上司にも参考になるヒントが沢山ある素晴らしい1冊です。

怒鳴る指導が止まらないコートの舞台裏


 拝読してまず驚いたいたことは、2015年の話であるとしても、バレーボールのジュニアチームの子供たちが、当時、監督に怒鳴られ、平手打ちをされ、泣きながらプレーをしているという事実。昭和の頃からいまだに変わらず、体罰がバレーボールの指導の「当たり前」ということ。これを何とか変えられないか、10年かけてこの活動が不要になる、つまり現場から怒る理不尽な指導がなくなることを真剣に著者は考えていた現実です。

ベテラン世代の「上司」と「監督」の言い分

 特に印象的な点は、監督たちの否定的な声が、50代、60代、70代の上司の言い分と非常に似ていること。

監督の声
「怒らないなら、勝てない」
「怒らないことは、指導ではない」
「子供が甘えてつけあがる」
「チームとして成立しなくなる」
「怒らないなら、勝てなくてもいいんだね」
「初めから勝利を諦めるんだな」
これが10年たってもなくならない、とのこと。


一方、上司も負けずに次のように言います。


上司の言い分
「俺は怒られてきたから、いま成功している」
「経営者で成功している人は、みな、怒られることに耐えてきた」
「怒られない奴は、成長しない。」
「一番怒られた奴が結果、出世した。だから感謝しかない」
非常に似ていますね。

「スポーツマンシップ」と「リーダーシップ」の共通項


協会の方針としては、「スポーツを楽しむこと」が第一です。
誤解があってはいけないのですが、怒ることは否定せず、怒ってもいいときは、以下の4つの場合と限定しているのです。


1 ルールやマナーを守れなかったとき
2 取り組む態度、姿勢が悪かったとき
3 いじめや悪口を言ったとき
4 危ないことをしたとき

このような、スポーツマンシップに外れた行為をしたときは、「プレーの中のミスに対する感情的な叱責だけ」を禁じているとのこと。これを仕事に置き換えると「部下の仕事のミスに対する感情的な叱責」と全く同じです。また、スポーツマンシップについて次のように定義しています。「人との接し方やふるまいに思いやりがあり、誰かの為に自ら動けるスポーツマン」。素晴らしい表現です。私も全く同感です。相手を一人の人間として尊重している考え方が根底にあると感じました。

 高校野球の全国大会で代表の選手が「スポーツマンシップにのっとり、正々堂々と試合することを誓います」とお約束のフレーズがあります。
この正々とは、私なりに解釈するならば、ルールやマナーを守る、堂々とは一点の曇りなく胸を張って試合をし、真摯にそしてフェアに取り組むことと伝えています。まさに、コンプライアンスの本質そのものなのです。

あなたは、誰かのために自ら動けますか?

「誰かのために自ら動ける」私が一番気に入ったこのフレーズ。
日本の職場では、この誰か困っている人のために、自ら動ける人が多くない印象です。言葉をオブラートに包まずに言えば、他人事、つまり傍観者でいる方が面倒なことに巻き込まれずにいられるので、安心なのです。
チームで仕事することが大事と口先ではいいながら、実際は助けない。言い換え得れば、同じ「職場という名のコート」のなかで年度の目標を達成するという試合を共に戦っていても、実は、仲間がピンチでも、ミスをしそうなときに誰もフォローしない、試合が終わっても声をかけない、無視と同じです。
 このような言動は、コートのなかでも、職場のなかでも同じことが起こりえると私は断言します。ましてや、スポーツと比べたら、職場は就業規則など様々なルールもありますので、従うべきことは多く、ペナルティーの厳しさは言うまでもありません。
 スポーツマンシップを発揮することと、リーダーシップを発揮することは、その姿が誰かを励まし、勇気づけることです。チームのメンバーにいい影響力を波及させ、結果的に強いチームを作る点においては、何ら変わりません。

職場でも取り入れたい、怒っている人を自覚させる方法


この大会は、旧態依然とした指導者にはバツが悪いイベントのようです。何故ならば、普段と違う姿(怒らない自分を見せる)を子供たちや保護者に見せるために、居心地が悪いようなのですが、とてもユニークな取り組みを大会中にしています。
実際に、つい声を荒げた指導者には「バッテンマスク」を進呈することで、怒りを無自覚に指導に使っている監督に気づきを与える取り組みをしています。会社でもコンプライアンスウイークくらいは同じことをやっても面白いと思いませんか?
ユニークさを受け入れてくれるコンプライアンス部の皆さん、担当取締役の皆さん、「バッテンマスク」はパワハラ行為者の問題の根にある「無自覚」を職場の全員で考えるヒントになるのではないでしょうか?

「怒らなくても勝てる」

 本書でも指摘していますが、大事なことは「理不尽」に怒らなくても勝って強いチームを作ることが可能であると言っているにもかかわらず、「怒らない」=「勝てない」とバイアスに完全に囚われている監督が多いようです。このバイアスのなかにも監督自身も若い頃から無意識に植え付けられた監督像、つまり「監督はこうあるべき」という強い価値観が刷り込まれ、プレッシャーとなってのしかかり、ときには押しつぶされそうになるとありますが、これは、上司も同じです。
  特に上司は、偉くなるほど誰も指摘はしてくれず、利益のプレッシャーも当然にありますが、残念ですが、プレッシャーのない仕事は存在しません。経営である以上、数字の責任を負っているのです。部下育成や仕事も課題も山積みで悩みも多いのですが、以外と誰にも相談できずに人知れず一人で悩んでいる人が多いのです。

要改善な監督とパワハラ上司の共通項
-ミスの理由を聞くこと

「ボールを拾わなかった子に、『なんでいかないんだ!』と怒鳴る監督がいますが、「なんで」と言われても、その時はよくわからないものです。でも理由は絶対にあり、丁寧に聞いてあげると必ず出てきます」とあります。
職場に置き換えます。「なんで、こんな仕事しか出来ないんだ!」「なぜ、ダメなんだ」なぜなぜ分析が大好きな上司と重なって読んでいる自分がいました。子供を指導するのも、部下を指導するの根本は同じであることを改めて痛感しました。
「『なんでミスをした』と言われると『できない自分』だけが刷り込まれていく」このフレーズは、全国の日本の管理職に声を大にして伝えたい言葉です。
これ以上は、是非、ご著書を読んで頂きたく、とにかく全国の管理職に読んで欲しい、あなたの部下指導を変えるヒントが沢山詰まった至極の一冊です。

子供たちと部下を伸ばす至極の言葉


本書では、子どもたち一人一人を見ていることの大切さを伝え、
「絶対に、チャンスをあげるからね」と声をかけることの大切さを説いています。上司の皆さん、部下に、今は難しくても「絶対にいつか活躍できるチャンス」与えていますか?

今年も新入社員が入ってきました。


上司、先輩の皆さん


新入社員にどうぞ、入社早々、怒らずに、まずは、よく見て、チャンスを与えて成長させてください。マネジメントの役割は、「部下育成」です。人が育つには時間がかかります。上司の皆さんも時間がかかったのと同じです。ただし、手間暇のかけ方が、昔とは180度異なっているのです。
20年後、30年後の未来の会社のリーダーは、あなたの部下です。一緒に未来のリーダーをサポートしていきましょう。
その上司の姿を、部下は必ず見てます。

ハラスメント研修企画会議 主宰

株式会社インプレッション・ラーニング  代表取締役、産業カウンセラー。立教大学経済学部卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修企画営業部門のマネージャーとして一部上場企業を中心にコンプライアンス、ハラスメント研修等を企画。2009年株式会社インプレッション・ラーニングを設立。起業後、企業研修プランナーとして「ハラスメントの悩みから解放されたい」「自分の指導に自信を持ちたい」「部下との関係性をよくしたい」……といったハラスメントにおびえながら部下指導に悩む管理職に年間200件のセクハラ、パワハラ研修を企画し、研修を提供。会社員時代の研修コンテンツでは決して企画することが出来なかった 「グレーゾーン問題」に特化したハラスメント研修を日本で一早く企画し実施。 起業後10年間で約2,000件、約30万人以上に研修を企画してきた。

無自覚にもほどがある。

セクハラがとまらない

2024年になり、特にセクハラの話題が止まりません。
実際に、新型コロナウイルス感染症が落ち着いてきたことにより、会社でも飲み会が増えたことにより、セクハラ事案が増えているという声があちらこちらから聞こえてきます。さらに、直近のニュースでも以下の通りセクハラのニュースが止まりません。


「高松市消防局の職員が部下へのハラスメント行為で懲戒処分」
加害者は部下の耳や手をなめる行為をコミュニケーションの一環と主張
(2024年3月)
「沖縄県南城市、セクハラ訴えた女性の個人情報を市長がSNSに投稿」
(2024年3月)
これ以上は割愛しますが、3月も無くなりません。

そして、まだ記憶に新しい、ENEOSのグループ会社等々で3回連続の経営陣のセクハラ。当時の社長が、懇親会の席で酒に酔った状態で、女性に抱きつくといった不適切行為があったことで解任。
 コンプライアンス担当の副社長、常務も同席していても止められない。相変わらず上司にモノが言えない旧態依然とした社風が垣間見えます。新入社員の皆さん、これが「あなたの知らない組織」の世界です。

会食での飲み過ぎとセクハラを監視する会社

 再発防止策として「今後、取締役が会食時に飲酒しすぎていないか、同行者が監視するルールを新設。取締役が会食の場でハラスメントを起こした場合には、同席・同行した者も連帯責任を負う」とのこと。
このようなルールを設置しないと、セクハラをしない人が経営者になること自体が許される異常さ。社内の根回しが上手く、酒を通じた人脈づくりが得意な人が、評価される社風が薄っすら透けて見えます。本当にこれ以上、同じ被害者を出さないことを祈るばかりです。この事案の詳細は「ENEOS セクハラ」と「ググって」頂くとネットニュースに溢れていますので譲ります。

さらに上書きするように飛び込んできたニュースが岐阜県岐南町、前小島町長のハラスメント。メディアで何度も町長の顔をご覧になった方も多いかと思います。

令和6年2月27日 岐南町ハラスメント事案に関する第三者調査委員会の報告書から読める、報道ではあまり取り上げられなかった、私が個人的に気になった点、今のセクハラ防止対策で意外と見落とされがちな点を改めてお伝えしたいと思います。

前代未聞の異常なアンケート結果

  職員の半数近くがハラスメント被害を受け、「80%以上の職員が何らかのハラスメントがなされていると感じた」というアンケート結果が出ていました。
調査報告書の町長による不必要な身体接触・不快な言動の一覧をみると、99個列挙されていますが、実際には報告書にはないものも含めると、煩悩の数をはるかに超えていることは想像に難くありません。
個別具体的な行為内容は検索していただくとして、町長自身のハラスメントに対する「無自覚」、「無関心」、「無理解」は記者会見を見ても明らかでした。ハラスメントの3大トリガー「無自覚」、「無関心」、「無理解」であるベテラン管理職の加害者やその予備軍が減りません。冒頭ご紹介した3月に起きたハラスメント事案を見てもお分かりの通りです。

「私らの時代は頑張った子、あるいは良くできた子は頭をなでてもらった経緯がある。みなさんは若いから分からないと思う」

元町長小島氏のコメントが、3大トリガーすべてを体現しています。これは、いまだに日本の会社の中から聞こえてくるフレーズ
であることを添えておきます。

メディアでは取り上げられない、意見箱に投稿された組織への不満 

  調査報告書から抜粋して、具体的にどのような不満が職員から上がっていたのかを見ていきましょう。原文を掲載します。

★今回のセクハラ、ハラスメント事案について、町長はもちろんですが、上層部職員にも怒りを感じています。勇気を持って上層部職員に、セクハラの事実を突きつけてもなお、町長の言動に変化はなく、解決に至りませんでした。職場として職員を守る体制が整っていなかった事実についても追求していただきたいです。

★退庁時に町長が部長・課長等を従えて各階を廻り、まるで大名行列の様。自分よ
り早く帰った職員をチェックしているとも言っていて、それを気にして帰れない。

★町長が帰庁する時に幹部職員が連れ立って帰宅する姿は異常に感じる。

★現在の主幹級以上のほとんどは今回のセクハラについて多かれ少なかれご存知のはずです。冗談まじりに、「適当に相手をしといてくれると助かる」というような発言をしていた方もいたと聞きます。陰で、職員を退職に追いこむのなんて簡単だと複数人で話している管理職もいました。


★岐南町役場は町長の言う事が絶対みたいなところがあり誰も逆らえない。

(下線は筆者)
いかがでしょうか。

上層部への怒り、管理職への不満が散見されます。実は、問題はここにもっと目を向けるべきです。この声なき声に対して、管理職は向き合わずに逃げているのです。組織的対応がなされていない実態です。
上司は「自己防衛するように」「嫌なことは嫌といううように」とまるで他人事。誰も組織の自浄作用に期待しなくなり、精神的負担は想像に難くありません。

管理職に共有したい組織な対応の重要性

調査報告書にはさらに次のような指摘がなされています。これが今回の問題で日本全国の管理職、経営者の皆さんと共有したい点です。

『職員について 町長を除く職員についても、念のため言及する。 対応不全の結果、就業環境が害された状態が継続したこと、とりわけ本件事案を認識していた幹部職員には、ハラスメント防止に組織として取り組まなければならないという意識の持ちようがいか程であったか、また、組織の長による不祥事への対応という前例がなく法令等の整備も充分でなく複合的な要因のある事態への対応に困難を要すると現状認識したことは想像に難くないとしても、対応不全を招いたことに「リスクからの逃避」や「事なかれ主義」がなかったかについて、職責の高さを念頭に置いたうえ自己検証し、重大問題であったと重く受け止め、自戒いただきたい』

若手が働きたいと思う会社になれるか?

岐南町に限らず、表向きは「ハラスメント防止に取り組む」といいながら、経営陣が他人事の会社は少なくありません。自分の会社のなかで犯罪行為が行われているという意識が希薄なのです。
 少子高齢化、労働人口減少の問題が突きつけられている今、10年後、20年後のリーダーは間違いなく、今の20代、これから入社する学生の皆さんです。
彼ら、彼女が本当に安心して働ける、こんな魅力のある人のいる職場で働きたいと思えるような先輩、上司が多数派にならなければなりません。

岐南町の内定者の顛末

2024年4月
岐阜県岐南町の新卒の内定者2人がいずれも辞退しました。

二度とこのような不幸な出来事が起こりませんように。
この問題は、他人事ではありません。同じような組織が日本中にまだまだ沢山実在する事実から、目を背けてはいけないのです。

出たな、新種め!「。」マルハラ

ネットニュースで話題となっているマルハラ「。」
「マルハラ」とは、LINEなどのアプリを使ったビジネスコミュニケーションの際に、上司などからの返答が「。」で終わっていると、「不安」「怖い」いう若手の意見が増えているという状況のことです。
  私も研修の現場で、受講生から同様の質問も受けたことがあるのですが、
実例を交えながら、この問題について考えていきたいと思います。
この話を一旦、整理する必要がありますね。句読点の問題を不安に感じる人がいることと、不安に感じた人が、その気持ちを「ハラスメント」という言葉で相手に伝えることを、分けて考えたいと思います。

文章の句読点を不安に感じる人がいる

 そもそも、若手が句読点の打たれた文章を読んで「怖い」「圧力」と感じるのは、読み手の主観です。圧力と思うことは自由ですが、その感覚自体はハラスメントではありません。ちょっと眉唾でしたので、実際に複数の高校生、中学生にも直接聞いてみたのです。実際には、「怖い」とは思わない人も多数います。「人によるのでは?」とのこと。生の彼らの声をきくと、どうしてもメディアの情報だけを鵜呑みにすることの怖さを感じてしまいます。

 私たちは、国語の時間に句読点を習い、手紙や、メールも、ガラケー時代のショートメールも、何の疑問をもたずに句読点を打って文を書いてきました。むしろ、正しい句読点をつけないと気持ち悪い気分の人や、学校のテストだったら点数をひかれる、或は、上司にその報告書を指摘されることもあります。
「怖い」と感じる人の言い分としては、短いことばでキャッチボールするLINEのやりとりの中に、句読点は用いることはなく、反対に句読点が多用されると「怖い」と感じるのがその根拠のようです。
 つまり、句読点を用いないLINEでのコミュニケーションが前提なのです。
LINEと手紙、どの媒体に軸足を置くかによって考え方も全く異なるでしょう。単に世代によって異なる価値観の違いにすぎません。
LINEの使いかたの本は読んだことはありますが、LINEでの文章の打ち方や文章構文の本は見たことがありません。

上司も悪気はない

 LINEを使っているベテラン組が、長すぎるその文章に、子供や若手から「その文章はLINEではなくメールですと」突っ込まれたという話はよく聞きました。チャットもいまほど普及していない時代は、「文章とは、丁寧にかかないと失礼にあたる」と思ったベテランもいたでしょう。チャットというツールを知らない人からすれば、単純にメールの書き方をそのままLINEという媒体で使っているだけのことで悪気はありません。短い言葉だとかえって失礼にあたらないかと思う人もいたものです。
最近では、リモート会議でTeamsなどチャットを使う機会がこの数年で劇的に増えたので、感覚的にはその違いが理解できるベテランも増えたのではないでしょうか。

上司のメールが怖い

 研修の現場でお客様から同様の悩みをもちかけられたことがありました。その課長は、部下の新人社員から「自分が指示したメールが怖い」とういことで相談をもちかけられたとのこと。具体的に指示したメールの内容で「怖い」と指摘された文章を私も拝見したのが次の一文。

「この資料を3日後までに作ってください。お願いします。」

この文章のどこにハラスメントの要素があるのでしょうか?

本当に句読点をつけるとパワハラか?


 怖いと相手が感じることは自由ですが、怖いと感じたその気持ちを「ハラスメント」という言葉を使って表現しては、誤解を生みます。言われた上司も驚きますし、反対に職場の人間関係がギスギスします。これでは、上司も何も言えなくなってしまいますね。
 句読点をつけた文章を相手に送ることがハラスメントになるならば、日本中の文章はすべてハラスメントになりませんか? この記事もハラスメントですね。句読点を外せば、ハラスメントにならないのでしょうか?もっと読みにくくなります。まずは、これは定義にもとづく「ハラスメント」ではないことをはっきりと申し上げます。

さらに、その上司は実際に、部下にどうすれば怖くない?と聞いたそうです。

部下の驚愕の答えとは・・・

「この資料を3日後までに作ってください!お願いしますm(__)m」

これなら怖くないとのこと。
なんと、笑顔マークや!があれば、安心して仕事ができるとのこと。

 この会社は、スラックといったチャットツールは使用せず、メール一本の会社。一方でこの会社はリモート会議中、チャットでは、他の上司や先輩も、絵文字も飛び交っているとのこと。しかし、この課長は、チャットの絵文字は「遊び」であり、仕事で使うものではない、という価値観を信じて疑わず、抵抗感があるため、チャットでも絵文字などは使えないとの一転張り。最後まで並行線でした。

 私も20代のお客様から実際に、「よろしくお願いいたします!m(__)m」と普通にメールも届きますが、特に不快になったことはありません。30年前ならいざ知らず、時代が変わったなぁとほほえましく感じています。
 会社のビジネスマナーもそろそろ転換期がきているのかもしれません。そうはいっても、そんな優しいムードに流されてばかりもいられないのです。色々な場面に応じた、様々な形式の書類がありますから、句読点にいちいち振り回されているわけにはいかないのです。

違いは「間違い」ではない

提案があります。
上司もいちいち目くじらを立てずに、これまでのオフィシャルなビジネス文章は別としても、普段の何気ない会話といった場面でのLINEやチャットを使うときは、「吹き出し自体が、一つの区切り」と考えてみてはいかがでしょうか?
そうすれば、「吹き出し=句読点」と考えれば、句読点はいらないものと捉えられませんか?「そういものだ」と割り切れる!?かもしれません。

 今回のSNSを代表とするような句読点の問題、明らかにハラスメントとは言えないような世代により異なる価値観の違いの問題。この「違い」は決して「違い」であって「間違い」ではない、とういこと。

 LINEやチャットで完結するビジネスであれば問題ないでしょうが、取引先や社外の方へのメール、相手の会社の社風、TPOに応じた対応といった厳然とした事実を歪める必要はありませんので、(慶弔に関する文章など)その点はもう一度、丁寧に説明しましょう。そして、これは定義に基づく「ハラスメント」ではないことも丁寧に伝えてください。

「いいから黙ってマルつけろよ!」

 最悪のパターンは、上司が「つべこべいわず、いいからマルつけろ!」と怒ってしまうことですね。それこそパワハラになりかねません。まずは、怖いと感じる相手の気持ちを受け止めてください。今回のマルハラに関連する記事を読むたびに、個人的に気になることは、どうも、職場内の普段からのコミュニケーション不足が垣間見えるのです。

人間関係に終止符を打たないために


 マルハラは、定義に基づくハラスメントではありませんので、「ハラスメント」という言葉を使わないで、その不快な自分の想いを伝える努力をしてみましょう。こんな些細なことでも話し合える関係をつくって欲しいものです。
そして、ハラスメントを「ウザい」「やばい」「キモイ」と同じくらいライトな感覚のまま、職場で使うことは控えましょう。

「句読点」が引き金となり人間関係に「終止符」を打たないようにすることを心がける、そんな余裕が私たちに必要かもしれないですね。

しかし、この〇〇ハラ。いい加減やめて欲しいと思うのは私だけでしょうか?

藤山晴久(ふじやま はるひさ)

ハラスメント研修企画会議 主宰

株式会社インプレッション・ラーニング  代表取締役、産業カウンセラー。立教大学経済学部卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修企画営業部門のマネージャーとして一部上場企業を中心にコンプライアンス、ハラスメント研修等を企画。2009年株式会社インプレッション・ラーニングを設立。起業後、企業研修プランナーとして「ハラスメントの悩みから解放されたい」「自分の指導に自信を持ちたい」「部下との関係性をよくしたい」……といったハラスメントにおびえながら部下指導に悩む管理職に年間200件のセクハラ、パワハラ研修を企画し、研修を提供。会社員時代の研修コンテンツでは決して企画することが出来なかった 「グレーゾーン問題」に特化したハラスメント研修を日本で一早く企画し実施。 起業後10年間で約2,000件、約30万人以上に研修を企画してきた。
現在、ハラスメント・コンプライアンス研修講師として登壇。

管理職の皆さん、困ったときに「助けて」と言えてますか?

相談業務は大変

 どこの企業もハラスメントの相談窓口を設置、相談担当者を育成して、「社員からの相談を聴く」一見、簡単そうに見えて、その道のプロでもなかなか難しい仕事を任されて日々、社員から寄せられる様々な相談と格闘している社員が全国にいらっしゃいます。

 一方で、現場の管理職も、ラインの責任者として、日常の業務内容に関することに限らず、職場での部下などから人間関係の悩み相談されることも多いことかと思います。大企業になると、コンプライアンスリーダー制度を設けて、コンプライアンス部門と協力して、なるべく早く現場の悩みに対応すべく、管理職がコンプライアンスリーダーを兼任して、仕方なく!?引き受けている方も少なくありません。

 相談者からの相談に対応することで、当然、その分自分の仕事の時間が減りますから、管理職といえども、日常のプレイヤーとしての仕事、マネジメントの仕事、どちらも手を抜くわけにはいきませんので、正直いくら時間があっても足りません。上司の仕事量は増えるばかりです。そのことでかえってストレスを抱えている辛さも実際に聞こえてきます。

 深刻な相談は別として、人間関係の好き嫌い、同僚同士の嫉妬、マネジメントの誤解、経験を重ねた管理職からすれば、「それくらい自分で解決してよ」と、思うような大したことないと言いたくなる悩みであっても、部下からすれば深刻です。しかし、役割上、しっかりと「傾聴」しなければならず、いつのまにか「傾聴も我慢のスキル」と誤解されるようになり、余計に我慢することが増え、比例して、これまた上司のストレスも溜まっていくのです。

なぜ、上司は相談窓口を利用しないのか?

最近、私が気になることがあります。会社では相談窓口を利用しよう!と部下に声高にPRするのは、いいのですが、なぜ肝心な管理職はPRする側になるだけで、管理職側は会社に相談しないのでしょうか?管理職の相談件数が、一般職に比べて少ない、或は、ゼロの会社もあります。

その背景に、ある特徴があります。特に、上司世代は、昔、学校や家に帰れば親から「自分ことは自分でやろう」と習って育ちました。学校や習い事、塾の先生も、今に比べれば、厳しい指導スタイル。

その価値観を疑わないまま会社に就職し、歯を食いしばって、昨日よりも明日、明日よりも明日と、苦労と我慢が自分を成長させると信じで疑わず、当時上司の(現在は80代)パワハラにも耐え、根性論で這いつくばってきた世代といえるでしょう。ある意味、80代の上司の価値観を擦り込まれてきた節はあります。

上司だってパワハラをうけている

色んな苦労を乗り越えて、成果をあげてきたからこそ管理職の立場にあることは間違いない事実であり、素晴らしいことです。しかし、その価値観で30年以上も同じ会社で、同じ風土で会社員人生を過ごすと、頑張ってもできないことや、困ったことがあっても、人に相談が出来なくなる人が、今、増えているのです。管理職だって完璧な人間ではありません。大きな声では言えませんが、部下には知られたくない苦手な仕事もあります。同僚や部下に頼ることなく、仕事の悩みを一人で抱え込むのです。ここだけは聞いて欲しいのですが、「悩み」を抱え込むのです。これは、仕事に限らず、家庭、自分、将来、病気、介護と様々です。

 部下や同僚に「助けて」と言うと、相手に迷惑をかけたり、「無能な上司」と思われたりするといった

不安にかられ、自分から言い出せないのです。上司だって、上司の上司からパワハラをうけます。役員会で怒鳴られて、精神的に追い詰められて退職を余儀なくされた部長や課長を何人も見てきました。「売上があがらないならが、いますぐ、その窓から飛び降りろ!」こんな言葉が役員会で飛び交う時代錯誤の会社がいまだにあります。

退職すれば、上司の役員は、「あいつは根性が足りない」と一蹴し、内心、敵が減ったとほくそ笑む。結局、役員自身のマネジメントの無能さを、部下の精神的な弱さにすり替えられ、「なかったこと」に置き換えられ、もみ消される。これがまだ、今でも日本で行われているのが実態です。

増える50代の自殺者数

 今、日本の特に50代の自殺者数が増えています。「助けて欲しい」この一言が言えない上司。職場では、部下の悩みは聞くとても優しい上司ですが、自分の悩みは、誰にも吐露できない上司が増えています。

もし、管理職の皆さんが、部下や同僚から助けを求められたら、仕事だから相談にはのるのかもしれませんが、一人の人間として「何か手伝えることないかな」そんな気持ちは湧き起こりませんか?

大袈裟かもしれませんが、目の前で、突然、心臓発作で苦しんでいる人がいても、あなたはその場から逃げますか? 

助けを求めても、自分の思うようにいかないこともあるでしょう。それが会社です。でも、部下にさんざん進めている相談窓口だって、ちゃんと上司である「あなた」の話を聞いてくれます。社内が恥ずかしいなら、社外でもいい。プロのカウンセラーでもいいのです。

管理職の皆さん、もう我慢するのはやめませんか? 

もっと、相談しませんか?

あなたが、本当に心の底から恥ずかしがらずに「助けて」を同僚や部下に伝えたときに、頼られた相手は、できる範囲でなんとか応えたいと思いますよ。信じてください。

我慢の限界までいくと、肉体と精神が病み、最後は自殺します。私の親戚にも、上司のパワハラで最後は癌になり、職場復帰できずに、先の見えない介護生活がはじまりました。生き地獄です。後悔していました。「勇気をもって会社を辞めればよかったと」

生活や給与、ポジションにしがみつくことで、かえってすべてを失うもの方が多かったと。生気を失った状態です。ご家族の悲痛の叫びが忘れられません。

相談することは恥ずかしいことではない

相談することは、恥ずかしいことではありません。その抱えている悩みに共感し、伴走してくれる、人には言えない悩みを吐露できる人がいる人生は最強です。会社の人間関係は、所詮、究極的には他人の集まりです。放置しておくと、内心、無関心です。

自分らしい人生を生きるためには、「相談する力」がますます、求められてきます。

人生100年時代、リスキリング、もうこういった言葉は聞き飽きました。ヘドがでます。

これから残りの人生をもっとラクに生きるためにも、そして、AI、AGIをはじめとして世の中が進化しても、やりがいや、生きがいのある人生を送るためには、是非、「相談する勇気」を身に付けて欲しいと切に願うばかりです。

読者のみなさんは、相談窓口活用していますか?

ハラスメント研修企画会議 主宰

株式会社インプレッション・ラーニング  代表取締役、産業カウンセラー。立教大学経済学部卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修企画営業部門のマネージャーとして一部上場企業を中心にコンプライアンス、ハラスメント研修等を企画。2009年株式会社インプレッション・ラーニングを設立。起業後、企業研修プランナーとして「ハラスメントの悩みから解放されたい」「自分の指導に自信を持ちたい」「部下との関係性をよくしたい」……といったハラスメントにおびえながら部下指導に悩む管理職に年間200件のセクハラ、パワハラ研修を企画し、研修を提供。会社員時代の研修コンテンツでは決して企画することが出来なかった 「グレーゾーン問題」に特化したハラスメント研修を日本で一早く企画し実施。 起業後10年間で約2,000件、約30万人以上に研修を企画してきた。