月別アーカイブ: 2025年7月

「令和」の東京、地方へ行くと「江戸時代」?! 〜人を追い詰める”善意”のハラスメント〜

「ハラスメント」という概念が社会に浸透し、老若男女問わず「セクハラ」「パワハラ」というワードを聞いたことがない人はほとんどいないでしょう。小学生でも知っている時代です。

ハラスメント問題が難しい側面のひとつに、「する側」が無自覚であるケースや、価値観の対立から生まれることは、すでに多くの方が指摘している通りです。

人は誰しも、自分なりの「常識」や「正しさ」を持っています。それは世代や地域、環境によって異なり、ときにそのズレが相手を深く傷つけ、関係を壊す”ハラスメント”につながることがあります。

とりわけ職場のハラスメント問題を考える際に、私がそのギャップを強く感じるのは、「都市部で暮らす人」と「地方で暮らす人」の間に横たわる価値観の違いです。

地方から女性が消えていく現実

2024年に放送されたNHK「クローズアップ現代」の特集『地方から女性が消えていく⁈ 当事者の本音聞いてみた』(2024年6月17日放送)をご覧になった方はいらっしゃるでしょうか。

番組によると、2050年までに全国で744の自治体で若年女性の人口が半数以下になり、「最終的には消滅する可能性がある」という衝撃的な推計が発表されたとのこと(「人口戦略会議」より)。

もちろん、この事態に国も自治体も手をこまねいているわけではありません。国は2014年以降、「結婚・出産・子育て」支援のために自治体に交付金を支給しています。国の後押しを受けて、多くの自治体で子育て支援などを充実させています。

それでも20代・30代の女性の流出は止まりません。ある町で婚活イベントを企画したところ、42人の申し込み者のうち、女性はたった5人だったそうです。

「やりがいのある仕事がない」と地元を出る若い世代

この特集を見て、「いやいや、婚活イベントの前に、もっとやることがあるだろう」と言いたくなったのは、私だけではないはずです。

地方から女性たちが出て行くのは、そもそもそこが女性にとって生きにくい社会だからです。「女性には早く結婚して子どもを産んでもらいたい」という「圧」が、女性たちを苦しめていることにどうして気づかないのでしょうか。

番組では、当事者である女性たちの声が紹介されていました。彼女たちが地元を出ていく、あるいは出ていかざるを得ない理由として挙げていたのは以下のようなものです。

  • 「将来のキャリアを描けるような、やりがいのある仕事がない」
  • 「独身や子どもを持たない女性向けの支援がない」

ある女性がおっしゃっていた「東京が令和だとしたら、地方は江戸時代」という例えはとても印象的でした。

江戸時代?決しておおげさではありません。地方へ行くと、いまだに人が集まると、男性が座敷にデンと座って飲み食いする一方で、女性は台所で料理をして配膳をしている…という前時代的な光景をよく見かけます。

女性の足を引っ張るのは女性?

このように地方では、東京ではあり得ない価値観が幅をきかせていることに驚かされます。番組でも、こんな声が紹介されていました。

  • 「営業がやりたいのに、男性の補佐的な仕事しか任されない」
  • 「仕事をがんばりたいのに、早く結婚して子どもを産んで、という文化がある」

こんな不満を、上司にはいいづらいでしょう。

さらに女性たちを追い詰めるのは、前時代的な価値観を押し付けてくるのが男性ばかりではないことです。番組にも、母親や祖母から以下のようなことを言われている20代の女性が登場していました。

  • 「女はそんなに一生懸命働かなくていい、いい人を見つけて早く結婚して」
  • 「女は結婚して子どもを持ってやっと一人前」

悪意はないのかもしれません。けれど、それが”常識”という名の重圧となって、若い世代を静かに追い詰めていると私は思います。

うちの会社は、上司は「お父さん」、部下は「子どもたち」

会社でも同じことが起きています。日本には家族主義的な雰囲気の会社、社員数が少なくいわゆるアットホームな感じを醸し出す組織があります。否定はしませんが、その雰囲気や関係性が行き過ぎることで、ハラスメントの温床になり得るのです。

例えば、上司が「親」、部下が「子ども」といった関係性が暗黙のルールとなり、社内でのコミュニケーションでは以下のような行為が日常茶飯事になることもあります。

  • 「呼び捨て」や「キツイ言動」
  • 「バカにする言動」「見下す言動」
  • 「体型容姿をいじる言動」

また、馴れ合いから、セクハラ的な発言をした方が上司部下の関係性が近くなる、親密な関係になれると勘違いしている組織もいまだにあるのです。

職場は、家族ではない

職場のメンバーは家族ではありません。あくまでチームとして、組織の目標やビジョンを叶えるために縁があって集った、世代も価値観も異なるメンバーの集まりですから、そこに馴れ合いは必要ないのです。

甲子園の夏の高校野球の監督のインタビューを見ていても、昭和世代の監督は生徒のことを「うちの子どもたち」と呼び、無自覚で子ども扱い。令和の監督は「うちの生徒たち」と役割で呼ぶのです。些細なことかもしれませんが、呼び方ひとつで、そのチームの風土や監督の価値観が分かってしまうものです。

「親しき中にも礼儀あり」

こんな当たり前のことを、再確認しなければいけない大人たちに虚しさを覚えます。

価値観をアップデートできない人や組織の末路

結婚や出産に関わらず、「社会の一員として、やりがいのある仕事をしたい」という思いは、男性も女性も変わらないはず。それなのに、家族や地域が足を引っ張り、女性の生き方の幅を狭めているとしたら?そんな社会で「結婚して子どもを産みたい」と考える女性が増えるはずがありません。

時代の変化に合わせて価値観をアップデートすることを拒む人や、そういう人ばかりが幅をきかせる組織は、当然のことながら自然と淘汰されていくのでしょう。これは企業であろうと行政体であろうと同じことです。

ひょっとしたら、あなたの”常識”が、誰かの自由を奪っている可能性があるのかもしれません。

古い価値観にしがみついたまま消えていくか、価値観を今の時代に合わせて生き残るか。選ぶのはあなた自身です。アップデートしない限り、「多様性」も「ダイバーシティ」といった言葉も、虚しく聞こえます。

 社会と職場に蠢く闇の正体とは!?

冒頭「婚活イベントの前に、もっとやるべきことがある」と言いました。『地方から女性たちが出て行くのは、そもそもそこが女性にとって生きにくい社会だからです』

このフレーズを組織に置き換えると、『会社から社員が出ていくのは、そもそもそこが社員にとって働きにくい、居心地の悪い組織だからです』とも言えます。

今も、マタハラ、セクハラ、パワハラなど、国などに寄せられるハラスメントの相談は一向に減りません。ハラスメント問題が職場で起こるメカニズムも、地元を離れる若い世代の話と同様に感じます。この問題の根底に蠢く闇の正体を、今回の番組の特集を通じて垣間見たような気持ちになりました。

あなたは、どちらを選びますか?

「8時10分前集合って何時のこと?」— 世代間ギャップとハラスメントの関係

「8時10分前集合」は何時?最近、テレビやXでも話題になっている時間の捉え方の問題をご存じの方も多いのではないでしょうか。

世代でズレる”当たり前”が、実はハラスメントにもつながるという話があります。

「明日は8時10分前集合ね」と言われたので、8時5分に到着。

しかし先輩から「なんで遅いんだよ!」と怒られてしまいました。

「え?言われた通り来たんですけど…」
「そもそも”8時10分前”って、何時なんですか??」

そんな戸惑い、あなたもどこかで感じたことがあるかもしれません。

実はこの「8時10分前集合」、世代によって”まったく違う時間”を意味しているという衝撃の事実があります。そしてこの”ちょっとしたズレ”が、実は職場でのハラスメントの火種にもなりうることをご存じでしょうか。

今回は、時間感覚のズレから始まる「価値観の違い」と、そこから学べるハラスメント防止のヒントを探っていきます。

昭和世代の解釈:8時「の」10分前=7時50分

昭和世代の多くは、「8時10分前」と言われたら「8時の10分前」、つまり7時50分集合だと考えます。

この解釈の背景には、「時間厳守こそ礼儀であり、時間に遅れる=信頼を失う」という考えが染み付いています。昭和生まれの私としては、「10分前行動」は幼稚園の頃から当たり前のように習ってきた習慣です。社会通念として、今でも強く根付いています。

そのため、ビジネスシーンでも、たとえばリモート会議で10時開始の際に、10時ちょうどに入ると参加者が全員揃っていることもよくある光景です。10時に入ると気まずい雰囲気になることもあります。通信環境の問題もあるので、そこまで目くじらを立てる人は少ないですが、明らかに不機嫌な顔をしている人がいるのも事実です。

営業訪問やリアルでの会議では、やはり習慣的に10分前、5分前集合が当然とされています。私の大先輩は「1時間前には相手先に着いているのが当然だ!」という人もいました。相手から時間をいただいている以上、待たせては「絶対にいけない」という強い信念があるようです。

このように「集合は10分前が当たり前」と教えられ、社会に出ても「言われなくても早く来い」が常識だった時代なのです。

若い世代の解釈:「8時10分の”前”」=8:00〜8:09頃

一方、10〜20代はどうでしょうか。メディアでは、このように取り上げられていました。

「8時10分前集合」と言われたら、「8時10分の前…つまり8時5分くらい?」と直感的に解釈し、8時〜8時9分の間に着けばいいと考える人が多いのです。

一瞬、私はフリーズしました。

その背景には、様々な考え方があるようですが、「10分前に来い」と言われること自体が減った(言い方によってはハラスメントと感じられる)といった現代の空気感があるとの解説がありました。

アンケートで見えた、世代間の”ズレ”

北海道テレビの情報番組では、実際に50人に「8時10分前集合って何時のことだと思いますか?」と尋ねたところ、こんな結果になったそうです。

  • 10〜20代:8:00〜8:09頃集合 78% / 7:50集合 22%
  • 昭和世代:7:50集合 100%

若者の約8割が「8時前後に着けばOK」と考えている一方、昭和世代はほぼ全員が「7時50分」と答えています。この差は、部下を指導する上司としては気になるところです。

「時間の常識」が時代によって変わったのです。もちろん、私の周囲の大学生や高校生に話を聞いても、7時50分という人もいたので、内心安心しました。不思議なのは、小学2年生の頃に時間の授業があったと思いますが、実生活でこの言葉を使う機会が10~20代では減ったのか、定着していないとのこと。個人的にはまだモヤモヤします。

待ち合わせ時間に、ハラスメントの”芽”がある!?

たとえばこんなシーン、思い当たりませんか?

  1. 新人に「8時10分前集合ね」と伝えた上司
  2. 部下は8時3分に到着
  3. 昭和世代の上司が「遅い!常識がない!」と叱責
  4. 本人は「言われた時間どおり来たのに…」と戸惑う
  5. 結果、お互いにモヤモヤが残る

このように、価値観のすれ違いを「常識でしょ」と押し付けてしまうと、パワハラと受け取られてしまう可能性があります。「こんなことで」と思った方も多いかもしれません。

ハラスメント防止の鍵は「価値観の違い」に気づくこと

ハラスメントの多くは、「わかってくれて当然」という思い込みから生まれます。

しかし、時代も育ってきた環境も、使っているツールさえも違えば、相手の「当たり前」が違うのは当然です。

「わかってほしい」より、まず”わかろう”としているか?

今回の時間の問題についても、まず「おかしい」とバッサリと切り捨てることは簡単ですが、「面白い!」「そういう見方もあるんだ」「どうしてそう思うの?」と興味・関心・好奇心を忘れずに対話して歩み寄ることは、いつの時代も大切ですね。あなたが「おかしい」と感じた、その20代の部下は、いつかはあなたの上司になるかもしれません。

但し、ビジネスの世界では、待ち合わせは、正確さが求められるわけですから、不安に感じたら「何時何分ですよね?」とハッキリ互いに確認した方がよいと私は思います。遠慮は不要です。

価値観の厄介さ―昔の価値観が「伝統」にすり替えられる怖さ

この価値観の問題は、今回は時間をテーマにしていますが、組織などでは古い価値観を「伝統」にすり替えて、新しい価値観から目を背けようとする人たちもいます。

「うちは何十年もこのやり方でうまくやってきたんだ」

このように、旧来のやり方で成功体験があればある組織ほど、変化を受け入れることに抵抗がある傾向があります。

「昔のやり方がよかった。今のやり方は一見新しいように見えるけど受け入れられない」という回顧主義になり、過去に固執するケースもあり得ます。

その結果、退職などで人が流出してしまうことで、「古き良き価値観」を継承する人もいなくなってしまうこともあり得ます。

新入社員のみなさんへ

「言われた通りやったのに怒られた」
「空気読めって…何を?」

そんな経験があるかもしれません。

でもそれは、あなたが悪いわけではありません。ただ「わかり方の違い」—理解の仕方、受け止め方に違いがあっただけなのでしょう。

だからこそ、伝える側も受け取る側も、お互いの前提をすり合わせることが何より大切です。しかし、思った言葉を伝えないと、本当の想いは届きません。「ヤバい」「パワハラっぽい」など、SNSで溢れかえる言葉を使って表現しても、上司には届かないかもしれません。

具体的にどうして欲しいのか、何に困っているのかを伝える力を磨くことは、お互いの誤解をなくしていくために大切なことですね。繰り返しになりますが、今回の時間に関する問題は、不安に感じたら「何時であっていますか?」と質問すれば済む話です。そこには遠慮は不要です。「こんな質問して、笑われたらどうしよう」そんな思いは捨ててください。あとで揉めるよりもよっぽど大事なことです。

最後に

「8時10分前集合」って、あなたなら何時に行きますか?

今回のこの問題の答えは、単なる時間でもありながら、一方であなたの価値観そのものです。

そして、相手の答えに「そう考える人もいるんだ」と思えたなら、もうそれだけでハラスメント防止のスタートラインに立っています。

「わかってほしい」より「わかろうとする」
そして、お互いにしっかりと「確認」をすればよいのです。

その姿勢が、信頼もチームも育てていくのです。

そのきっかけは、相手の気持ちに耳を澄ますことかもしれません。

体育の授業は逃げられなかった。パワハラ上司からは、逃げてもいいですか? 「体育の授業が大嫌い」ヒャダインさんのエッセイに思う 【後編】

元体育教師の教授がヒャダインさんに反論?

前号に引き続き、SNSで話題になった音楽プロデューサーのヒャダインさんが、体育専門誌『体育科教育』(大修館書店)に寄稿したエッセイを取り上げます。
「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」
というセンセーショナルなフレーズから始まる文章で、旧来の体育の授業のあり方に一石を投じています。

このエッセイが掲載されたのは『体育科教育』2019年3月号です。2024年12月にXで紹介されたことで、改めて注目されました。すると、2025年2月号『体育科教育』の巻頭に、「緊急企画」としてこのような文章が掲載されたのです。
タイトルは、「『僕は体育の授業が大嫌いです』ヒャダインさんのエッセイに対して体育教師が考えること:Xでの反響を受けて」。

「これは読まねば!」と衝動にかられた私は、早速『体育科教育』を取り寄せてました。
この文章を書いたのは、和光大学教授の制野俊弘さん。ご自身も中学校の体育教師としての経験があり、大学で体育教師を目指す学生の指導をされています。まさに体育教師のリーダー的存在の制野さんが、ヒャダインさんのエッセイに対してどのような反論をするのか。私はドキドキしながらページをめくりました。

体育教師を目指す学生が書いた「ヒャダインさんへの手紙」

すると驚くことに、制野さんは文頭で
「これまで多くの体育嫌いを生み出してきた体育教師の1人として、まずは平身低頭で謝罪させていただきます」
と謝っているのです。さらに、
「体育の授業は人間形成において学校教育の中でとり入れなければならないほどの重要や役割をどのへんに秘めているのであろうか」
という、ちびまる子ちゃんのセリフを引用して、
体育という教科を「私たちはどう自分事として引き受けていくのか」と自問しています。

これが体育教師の卵の本音!?

制野さんは、大学の保健体育科教育法の授業でヒャダインさんの記事などを取り上げ、学生たちに「ヒャダインさんへの手紙」を書かせているとのこと。

学生たちは、
「体育が嫌いなのは恥をかかされるからというのは、本当にその通りだと思います」と理解を示しながらも、
「嫌いでもやってみたい、楽しそうだから少し参加してみたいと思えるような場づくりから授業を始めるべき」とか、
「クラスのみんなで授業を行う意味をもっと考えてほしい」とか、
制野さんいわく
「結局は、無邪気な『体育擁護論」に行き着く」のだそうです。

人の価値観は、そう簡単には変わりません。虚しさを漂わせている制野さんに、私はひどく共感を覚えます。

制野さんは、「教科としての体育は本当に必要なのですか。体育は何を教え育てる教科なのですか」と疑問を呈し、
「それを考え抜くことが生涯を懸けた問いであると肝に銘じたい」
と文章を締めくくっています。

学校でも会社でも、唯一絶対の「教育」方法に正解はありません。みんなが正しいと信じていた価値観も、時代とともに変わっていきます。だからこそ、現状に疑問を持ち、考えることを諦めないことが大事なのではないでしょうか?

しごかれなくてもプロになれる。

厳しいスパルタ的指導が想像されるスポーツの世界の指導のありかたはどうでしょうか?2024年に開催されたパリオリンピックでは、ブレイキン、スケートボードといった新しい種目で、10代、20代の日本選手たちが続々とメダルを獲得しました。

想像ですが10代の彼らは、昭和の「しごき」文化を知りません。「しごき」がなくても世界の一流になれることを証明しています。近年、頭角を現しているアスリートの周りには、たくさんの優秀なサポートチームがついています。
コーチング、メンタルトレーニング、メンテナンス、栄養士、チームドクターなど、それぞれの分野の専門家が、デジタル技術を駆使してサポートしているようです。それぞれの役割が明確であり、しかも適切な距離がある。高校野球の世界も昭和の頃とは様変わり。企業でも、社員の育成に「AIによるサポート」が導入されているところもあります。
従来のように「上から下への指導」「いいからやれ」的な一方的な指導はなく、対等な立場で本人の目標や、やりたいことをサポートする。

組織である以上、仕事において上から下への指示が行われるのは自然なことです。
しかし、育成という観点においては、「指導する」よりも「支援する」スタンスの方が、より高い成果を生むことが明らかになってきました。これは、社員育成の新しいスタンダードとして、もはや疑う余地のない発想の転換です。

にもかかわらず、少子化や若手の早期離職、管理職志向の低下、さらには70代・80代の部下の存在といった現実がありながらも、日本の多くの組織は、育成の在り方を大胆に見直す決断ができずにいます。その動きの鈍さには、歯がゆささえ感じます。

これからの時代、私たち一人ひとりが「育成とは何か」を真剣に見つめ直し、未来志向で人に投資できるかどうかが、組織に本気で問われています。
それは働きやすい職場、つまり、パワハラのない職場をつくる覚悟が本気であるかどうか。
その鍵は、私たち一人ひとりの手に委ねられているのです。

※引用はすべて『体育科教育』2025年2月号より

体育の授業は逃げられなかった。パワハラ上司からは、逃げてもいいですか? 「体育の授業が大嫌い」ヒャダインさんのエッセイに思う【前編】

  

学生の頃、体育の授業が好きでしたか?

「僕は体育の授業が大嫌いです。体育の教師も大嫌いです」
という、思いきった「体育大嫌い宣言」から始まる文章が、SNSで話題になりました。書いたのは、音楽クリエイターのヒャダインさんです。
「頼むからそっとしておいてください」
というタイトルがつけられたこのエッセイは、2019年3月に体育専門誌『体育科教育』(大修館書店)に掲載され、2024年にX(エックス)で紹介されたことで、再び注目されました。

『体育科教育』は、体育の教師向けの専門誌です。
体育の教師を職業に選ぶということは、読者の多くは小さい頃から運動が得意だったのでしょう。体育の授業では、足も速くて球技も鉄棒も難なくこなし、クラスメイトから賞賛を浴びていたはずです。
そんな体育教師たちに向けて、ヒャダインさんは

「なぜあなた達体育教師は、
僕達にクラスメイトの前で恥をかかせようとするのでしょう?」
と問いかけます。

「手本のように上手に出来なくて(中略)バタバタと手足を動かす僕をクラスメイトが笑う」
「自分が圧倒的に足を引っ張ったせいで、気まずい雰囲気になったバスケの授業は今でも思い出します」
と、ヒャダインさんは体育の授業を振り返ります。


同じような経験をした人もいるのではないでしょうか?
運動が苦手な人にとって、みんなの前で逆上がりを何度もやらされたり、横並びで走らされたりした経験は、つらい記憶として刻まれています。

みんなの前で恥をかかされることで、運動が苦手な子は、ますます運動が嫌いになってしまう。学校で週に何度も体育の授業が設けられていても、それでは本末転倒。ヒャダインさんは、「体育」と「スポーツ」は同義ではない、としたうえで、
「体育で惨めな目にあうことで、スポーツまで嫌いになります」
と書いています。

もちろん、体育以外の科目が苦手な子もいますが、ほかの科目では体育ほど
「みんなの前で恥をかかされる」
場面は少ないといえます。算数の授業で、算数が苦手な生徒を黒板の前に立たせて、みんなの前でわからない問題を何度も解かせるなんてことは、まずあり得ませんよね。

上から目線の指導に「NO!」

このエッセイがXで紹介されると、多くの共感の声が寄せられました。
ヒャダインさんのエッセイがここまで注目された理由のひとつは、運動が苦手で、体育の授業で同じような経験をした人が大勢いるから。もうひとつは、このような声を上げる人が、これまであまりいなかったからかもしれません。

学校を卒業すれば、ほとんどの人は体育の授業からも解放されます。大人になれば、逆上がりができなくても、跳び箱が跳べなくても、人前で恥をかくことはありません。

「学校の体育の授業、いやだったな」
という思い出はそっと胸にしまわれて、普段は思い出すこともなくなります。

しかし、一方で職場には、跳び箱という名の「ノルマ」や「利益のプレッシャー」から逃れられない状況が厳然としてあります。
職場では「今日休みます!」と職場の隅っこで「見学」は出来ないのですから。

ヒャダインさんのエッセイが掲載された号のテーマは、
「運動が苦手な子どもが輝く授業をつくろう!」
というものです。ヒャダインさんはこのテーマに触れ、
「『運動が得意な子は輝いている』と思ってるってことですよね? 上から目線の差別意識丸出しじゃないですか」
と書いています。

そう、これは「体育の授業」だけの問題ではありません。体育の授業で教師が
「よかれと思って」
生徒に押しつけていた価値観に、ヒャダインさんと彼のエッセイに賛同する多くの人が
「NO」
を突きつけたのです。

「今日の仕事は、楽しみですか?」

この「よかれと思って」を想起させる、非常に印象的な出来事が、
4年前の2021年、ある駅の大型ビジョンに現れた広告メッセージです。

一見ポジティブにも思えるその問いかけは、瞬く間に物議を醸しました。
「仕事を楽しめない人を責めているようだ」「これはディストピア」「仕事は楽しめなければいけないのか?」そんな声がSNS上にあふれ、大炎上。

よかれと思った「善意」のこの言葉は“楽しい”という価値観を押しつけるものと受け取られ、結果として、その広告はわずか1日で取り下げられることとなりました。「仕事は楽しいと思う人からの上から目線?」の差別意識と感じた人がいたのかもしれません。

この出来事は、どこかで見たような光景にも思えます。
教師が「よかれと思って」生徒に押しつけていた価値観「みんなでやるのが楽しいはず」「頑張ればできるはず」「苦手でも全力で取り組むべき」
そんな“正しさ”が、知らず知らずのうちに誰かを置き去りにしていた。

あの広告に感じた違和感は、ヒャダインさんの投稿とどこか重なるのです。

見直される「指導」「教育」のありかた

「できないヤツは、人前で恥をかかされても当然だ」
「悔しかったら、できるようになるまで努力するべき」
このような価値観が、いまだにまかり通っている組織はまだまだあるのではないでしょうか。
ミスをした部下をみんなの前で叱責する上司や、後輩に「やる気を出せ!」などと根性論をふりかざす上司・先輩は、令和の今でもいますよね。

もちろん、体育会系の人のやり方や考え方が、すべて間違っているとはいいません。スポーツに打ち込んできた人が持つ行動力や協調性は、社会で求められる資質といえるでしょう。

しかし、行き過ぎた「しごき」や「根性論」は、むしろ部下や後輩のモチベーションを下げてしまい、逆効果になります。学校の体育の授業と同じように、会社でも「指導」や「教育」という名のもとに、部下が壊れるような指導がゼロではありません。
それらを裏付けるように、パワハラの相談件数が右肩上がりであり、パワハラによる精神疾患に起因する労災認定が増加傾向にあります。

一方で、その指導のありかたが、今、本気で見直されているのです。

ヒャダインさんのエッセイは、改めて、パワハラを意識している、私たち働く大人たちにも、そのことに気づかせてくれたのではないかと私は思います。

※引用はすべて『体育教育』2019年3月号より

ハラスメント研修企画会議 主宰

株式会社インプレッション・ラーニング  代表取締役、産業カウンセラー。大学卒業後、アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修企画営業部門のマネージャーとして一部上場企業を中心にコンプライアンス、ハラスメント研修等を企画。2009年株式会社インプレッション・ラーニングを設立。起業後、企業研修プランナーとして「ハラスメントの悩みから解放されたい」「自分の指導に自信を持ちたい」「部下との関係性をよくしたい」……といったハラスメントにおびえながら部下指導に悩む管理職に年間200件のセクハラ、パワハラ研修を企画し、研修を提供。会社員時代の研修コンテンツでは決して企画することが出来なかった 「グレーゾーン問題」に特化したハラスメント研修を日本で一早く企画し実施。 起業後10年間で約2,000件、約30万人以上に研修を企画してきた。