前回は、アデレード大学のMay Young Loh博士の研究をもとに、「職場のいじめは社会的伝染病である」という考え方を紹介しました。職場いじめは個人の問題ではなく、組織全体に広がる現象であり、その背景には組織風土の課題があるという話でした。
学会ではハラスメント研修の効果研究も発表されていました。しかし私自身が強く関心を持ったのは、研修手法よりも「なぜその職場でハラスメントが生まれるのか」という組織要因の研究でした。
そんな中で特に印象に残ったのが、PSC研究の第一人者であるMaureen Dollard教授らの研究です。この研究は、ハラスメントそのものではなく、なぜ職場がハラスメントを生み出す環境になってしまうのかを問いかけていました。
生産性を追うことは悪ではない
誤解してほしくないのですが、生産性を高めることを悪と決めつけるつもりはありません。企業にとって生産性は重要です。利益も必要です。効率化も必要です。問題は、生産性を重視することではありません。生産性しか見なくなることです。
今回の研究で紹介されていたのが、「Bottom-Line Mentality(ボトムライン・メンタリティ)」という概念でした。利益、売上、KPI、業績などの数値目標だけを最優先し、それ以外の価値を軽視してしまう状態を指します。従業員の健康、働きがい、職場の人間関係、倫理観。そうしたものが後回しになり、気づけば「数字さえ達成できればいい」という空気が組織全体を支配するようになります。
人ではなく数字を見る組織
私はハラスメント問題に関わってきました。そこで感じるのは、問題を起こした人だけを見ても、本質は見えないということです。私はむしろ、この組織は何を大切にしているのだろう、という視点で見ることがあります。売上を最優先しているのか。人を最優先しているのか。利益を追うこと自体は悪くありません。しかし、人より数字を優先する文化が定着すると、組織は少しずつ変質していきます。
人はコストになる。会話は非効率になる。支援は甘えになる。やがて職場から余裕が消えていきます。
ハラスメントは管理ツールになる
今回の研究で最も衝撃的だったのが、「Bullying Productivity Hypothesis(いじめ生産性仮説)」でした。非常に刺激的な名前ですが、内容はもっと刺激的です。研究では、過剰な生産性プレッシャーの下では、いじめが単なるトラブルではなく、労働管理の手段として事実上利用されることがあると指摘しています。
もちろん、会社が公式に「いじめを推奨します」などと言うことはありません。しかし現実には、強く詰める人が評価される、厳しく追い込む人が成果を出す、部下を萎縮させても結果が出れば問題視されない、そんな環境が生まれることがあります。
すると、ハラスメントは黙認されます。そして組織の中で、「多少厳しくても結果が出ればいい」という空気が形成されていくのです。
管理会計の問題なのか、もっと上流の問題なのか
先日、SNSで「管理会計がうまく機能しない会社ほどハラスメントが起きる」という趣旨の投稿を見かけました。非常に興味深い指摘だと思いました。確かに無理な目標設定や過度な成果主義は、現場に大きな負荷を与えます。しかし今回の研究を聞いて感じたのは、それはさらに上流の問題ではないかということです。
問題は管理会計そのものではありません。問題は、利益や生産性を、人の健康や安全より優先する価値観です。管理会計が悪いのではない。KPIが悪いのでもない。数字しか見なくなる組織の価値観が問題なのです。
PSCという考え方
ここでPSC(Psychosocial Safety Climate)が重要になります。
PSCとは、組織が従業員の心理的健康をどれだけ大切にしているかを示す組織風土です。経営陣のコミットメント、経営陣の優先順位、組織的コミュニケーション、組織的参加。この4つの柱で構成されます。
重要なのは、PSCは福利厚生の話ではないということです。メンタルヘルス施策の話でもありません。PSCとは、この会社は利益と人間のどちらを優先するのか、という経営の価値観そのものです。
ハラスメントだけを見ていても、本当の問題は見えない
今回の発表を聞きながら、私は改めて感じました。ハラスメントは原因ではありません。症状です。ハラスメントが起きた。離職が増えた。メンタル不調者が増えた。不祥事が起きた。その時、多くの企業は個別の問題として対応します。しかしPSC研究は、そのさらに前を見ています。
なぜそんな職場になったのか。なぜ誰も止めなかったのか。なぜ沈黙が続いたのか。なぜ人より数字が優先されたのか。
私は以前から、「ハラスメントだけを見ていては、本当の問題は見えない」と伝えてきました。ハラスメントはそれ自体撲滅すべきことですが、他方でハラスメント自体が問題の本質とは言い切れない側面があります。
組織の価値観や風土、マネジメントのあり方が表面化した一つのサインなのです。だから、これから本当に見るべきなのは、ハラスメントという現象ではなく、その現象を生み出した組織の価値観や風土ではないでしょうか。
今回の研究は、その考え方を科学的に裏付けるものだと感じました。
私はこれまで、下請法違反が起きる会社ではハラスメントも起きやすく、ハラスメントが起きる会社では品質問題やコンプライアンス違反も起きやすいという現場を数多く見てきました。
当時は、経験則でしか説明できませんでした。しかし今回オーストラリアでPSC研究を聞き、その背景には「人より数字を優先する組織風土」があるという説明を受け、長年感じてきた違和感が一本につながった気がしました。
おわりに
もしも今、「結果がすべてだ」「数字がすべてだ」「多少無理をしても仕方がない」という言葉が当たり前になっている職場があるとしたら、少し注意が必要かもしれません。
ハラスメントは突然発生するわけではありません。組織が人より数字を優先し始めた時から、静かに始まっているのかもしれないのです。
オーストラリアの学会では、ハラスメントを個人の問題としてではなく、組織の価値観やガバナンスの問題として捉える研究が数多く発表されていました。
次回も、別のセッションで私が特に気になった内容を紹介したいと思います。
この記事を書いた人
藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー
「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」
20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。
アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。
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