月別アーカイブ: 2026年8月

「悪気はなかった」では、痛みは消えない。 ―高校野球の「死球」から考えるパワハラと職場の慣習

「死球」「刺殺」「併殺」。
野球を知っている人なら、ごく当たり前に使ってきた言葉だろう。
その「当たり前」に、宮城県高校野球連盟が問いを投げかけた。

「野球用語を考えてみませんか?」

すぐに言葉を変えよう、禁止しよう、という話ではない。
私が興味を持ったのは、むしろ、この問題提起が生まれた背景だった。

高校野球のグラウンドでは、
「殺せ!」
「刺せ!」
「盗め!」
といった言葉が飛び交うことがあるという。

もちろん、本当に殺したり、刺したり、盗んだりする意味ではない。
言う側にも、おそらく悪気はない。
野球を長くやってきた人なら、「そういうものだ」と聞き流す言葉なのかもしれない。
しかし、初めて野球の現場に来た子どもが聞いたら、どう感じるだろうか。
宮城県高野連が投げかけているのは、まさにそこへの問いである。

「そんな意味で言ったのではない」
「昔からそう言ってきた」
「みんな分かっている」
それで、本当にいいのだろうか。

この記事を読みながら、私は企業のパワハラ問題とよく似ていると感じた。 問題になる言葉の多くは、最初から相手を傷つけようとして発せられているわけではない。

むしろ厄介なのは、言っている本人も、周囲も、それを問題だと思っていないことである。
「昔から普通だった」という言葉の中に、組織の問題が隠れている。

「昔から普通だった」という免罪符

企業研修に伺っていると、繰り返し耳にする言葉がある。

「昔はこれくらい普通だった」
「悪気はなかった」
「この業界では昔からこの言い方だ」

ある職場で問題になる言動が、別の職場では平然と使われている。
その差を生んでいるものの一つが、職場の慣習である。
人は同じ環境に長く身を置けば、その「当たり前」を無自覚に取り込んでいく。
最初は引っかかった言葉も、毎日聞いているうちに違和感が薄れていく。そして自分が上司になったとき、今度はその言葉を発する側に回る。

「自分もそう育てられたから」。
こうして受け継がれていくのは、言葉だけではない。
その奥にある価値観である。

長くいる人ほど、おかしさに気づけない

 これは特定の一社の話ではない。
業種や規模の異なる企業の研修に伺うなかで、私は似たような構図を何度も目にしてきた。
管理職研修で、こんな質問を投げることがある。

「今の職場で、これは言い過ぎだと思う言葉はありますか」
多くの場合、反応は薄い。
特に思い当たらない、という表情が返ってくる。

ところが、同じような問いを若手社員にすると、違った反応が返ってくることがある。

管理職の耳にはもう何も引っかからなくなっている言葉が、若手社員の耳には「なぜ、こんな言い方をするのだろう」と違和感として届いている。

これは、能力や誠実さの差ではない。
むしろ真面目に部下を育てようとしている管理職ほど、自分が慣れ親しんできた言葉や指導の仕方を疑う機会がないこともある。

長く同じ場所にいるということは、それだけで感覚が慣れてしまうことがある。
野球でも、職場でも、それは変わらない。

だからこそ、「そんな意味で言っていない」「悪気はなかった」という説明だけでは十分ではない。
自分がどういうつもりで発したかだけではなく、相手にはどう届いたのか。
そして、その組織の文化を知らない人には、どう見えるのか。
その視点を失ったとき、組織の「当たり前」と社会の「当たり前」は、少しずつずれ始める。

「人」だけを見ても、組織は変わらない

 パワハラが起きると、私たちは本人にばかり目を向ける。

「あの管理職のコミュニケーションが悪い」
「あの人は感情的になりやすい」
もちろん、本人の言動改善は必要である。
だが、それだけで十分だとは、私は考えていない。

なぜその人物は、その言葉を使うようになったのか。
なぜ周囲は止めなかったのか。
上司はそれをどう見ていたのか。
同じような言動が、職場のあちこちで既に起きていなかったか。

さらに言えば、
「結果さえ出せば多少厳しくても構わない」
という価値観を、組織そのものが持っていなかっただろうか。

視点を「人」から「職場」、そして「組織」へ広げれば、パワハラは
個人のコミュニケーション不全だけでは説明できなくなる。
その人の言動を許容し、場合によっては強化してきた職場の空気や
組織の価値観まで見なければ、本当の原因は見えてこない。

ハラスメントとは、人と組織を映す鏡である。
私は、そう考えている。

言葉を変えれば解決するのか

では、「死球」を別の言葉に置き換えれば、問題は解決するのだろうか。
私は、そう単純な話ではないと思う。

「死球」という言葉を変えたところで、野球界の文化そのものが変わる  わけではない。
企業も同じである。

「呼び捨てをやめよう」
「さん付けにしよう」
「乱暴な言葉は禁止しよう」

もちろん、無意味ではない。
言葉を変えることで、人の意識や行動が変わることもある。
しかし、表面の言葉だけを差し替えて、その奥にある価値観が変わらなければ、本質的な問題は残ったままである。

問うべきなのは、「この言葉は禁止」という線引きだけではない。

なぜ私たちは、この言葉を当たり前だと思ってきたのか。
なぜ違和感を持たなくなったのか。
なぜ誰も「それ、おかしくないですか」と言わなかったのか。
そこには、先輩から後輩へ、上司から部下へと受け継がれてきた、
その組織固有の価値観がある。

そして、その「当たり前」の中にこそ、ハラスメントを育てる土壌が潜んでいることがある。

「違和感」は組織を映すセンサーである

 研修の現場で感じるのは、「何を言ってはいけないか」を覚えるだけでは、いずれ限界が来るということだ。
それ以上に重要なのは、自分たちの職場の「当たり前」そのものを疑う姿勢である。

「昔からこうだった」
「みんな我慢してきた」
「この業界では普通だ」
こうした言葉が出たときこそ、一度立ち止まってみる必要があるのではないか。

社会は変わる。
人の価値観も変わる。
そして、そこで働く人も変わっていく。

それなのに職場の常識だけが何十年も止まったままなら、いつか社会との間に大きなずれが生まれる。

私は、ハラスメント防止において、この「ずれ」に気づくことが非常に
重要だと考えている。
問題が表面化してから、
「誰が悪かったのか」
「どの発言がアウトだったのか」
と検証することも必要である。

しかし、その前にできることがある。
職場の中にある小さな違和感を拾うことである。

新しく入ってきた社員が、
「なぜ、こんな言い方をするのだろう」
「なぜ、誰も何も言わないのだろう」
と感じたとき、その感覚を「最近の若者は気にしすぎる」で
片づけてしまわない。
長くいる人には見えなくなったものを、新しく入ってきた人が
見つけている可能性があるからだ。
違和感は、単なる不満ではない。
組織の「当たり前」が社会の感覚とずれ始めていることを
知らせるセンサーにもなり得る。

「当たり前」を疑える組織であるか

 宮城県高野連が投げかけたのは、「死球を禁止しましょう」という単純な話ではない。
公式サイトにもあるように、あくまで「野球用語を考えてみませんか?」という問題提起である。

長く使われてきた言葉を、今の時代の目でもう一度見直してみる。
私は、その姿勢そのものに意味があると思う。

そして、この問いはそのまま企業にも向けることができる。
あなたの職場にも、長くいる人には聞こえなくなった言葉はないだろうか。
「昔から普通だった」という理由だけで、受け継がれてきた慣習はないだろうか。
「自分もそうやって育てられた」という理由で、次の世代にも同じことを求めてはいないだろうか。

新しく入ってきた人の目で、自分たちの職場を見直してみる。
そこで生まれる小さな違和感は、単なる「最近の若者の感覚」
ではないかもしれない。
組織が変わるための、重要なサインかもしれないのである。

パワハラをなくす第一歩は、問題のある人間を探し出すことだけ
ではない。
自分たちが、もはや疑わなくなった「当たり前」に気づくこと。
そこから始まるのではないだろうか。

死球は、投げた側に当てる意図がなくても、当たった側には痛みが残る。
職場の言葉も、同じではないだろうか。

参考・出典

・集英社オンライン「〈『一死』『併殺』『死球』が消える?〉『殺せ』『刺せ』が飛び交う野球界に宮城県高野連が問題提起…『言葉狩り』批判に理事長が語った“真意”」(2026年8月21日)
・宮城県高等学校野球連盟「野球用語を考えてみませんか?」

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#高校野球
#当たり前を疑う
#パワハラ



なぜ誰も止められないのか -ラグビーと横浜市役所に見る「NOと言えない組織」

先日、プロラグビー選手の山川力優さんが書いたnoteを読んで、
手が止まった。

タイトルは「なぜラグビーは夏に過酷な練習をやめられないのか
〜『負ける不安』が選手を追い詰める〜」。

同じリーグワンで戦う選手が練習中に熱中症となり、搬送先の病院で亡くなった。その事実を受けて、山川さんが自身の経験と日本ラグビー界の構造について綴った記事である。

その中に、こんな一文があった。

「試合に出たい選手ほど、外されるのが怖くて、言えない。僕も言えませんでした。言えない構造の中に、僕自身がいました。」

「言えない構造」。

この言葉が強く残った。

ラグビーだけの話ではない。
会社のパワーハラスメントも、企業不正も、重大事故も、
よく似た構図の上で起きることがある。

問題が起きたあと、私たちはつい言う。

「なぜもっと早く言わなかったのか」
「なぜ相談しなかったのか」
「なぜ止めなかったのか」

だが、本当に問うべきはそこではない。

「なぜ言わなかったのか」ではない。
「なぜ言えなかったのか」だ。

「わかっている」のに、なぜ止まらないのか

山川選手は熱中症対策について、こう書いている。

「熱中症の対策なんて、現場のみんなが『わかってる』んです。
わかっているのに、それでも事故は起きる。ということは、
これは知識の問題やなくて、構造の問題です。」

この指摘は、ハラスメント防止にもそのまま当てはまる。
多くの企業が毎年のようにハラスメント研修を実施している。
人格を否定してはいけない。
感情的に怒鳴ってはいけない。
部下の話を聴く。
困ったら相談窓口を利用する。
管理職の多くは、もうすでに知っている。
それでも、ハラスメントは起きる。
だとすれば、知識不足だけの問題ではない。

知っていても、その通りに行動できなくなる「何か」が、
組織の中に潜んでいる。
私は、そこを見なければならないと思っている。

「負ける不安」と「数字を落とす不安」

なぜ指導者は危険な練習を止められないのか。
山川選手はこう考えている。
「原因は、指導者個人の問題やなくて、『負けたら後がない』
という強烈な不安にあると思っています。」
相手チームがやっているかもしれない練習を、自分たちだけやめる。
それは指導者にとっても怖い。

企業組織と、驚くほど似た構図がここにある。

「今期の数字を落とせない」
「この目標は絶対だ」
「競合はもっとやっている」
「自分だけ未達では終われない」
その不安を抱えた管理職が、自分のところで圧力を止められず、
さらに下へ流してしまう。

「もう少し頑張れ」
「今月だけだから」
「みんなやっている」
その「もう少し」の蓄積の先に、長時間労働があり、
心身の不調があり、ハラスメントが生まれることがある。

そして、同じ構造は企業不正にもつながる。
利益を出さなければならない。
数字を達成しなければならない。
納期を守らなければならない。

プレッシャーが極端に強まれば、
「これくらいなら」
「今回だけなら」
という判断が積み重なり、ルール違反や隠蔽へ流れていくことがある。
私は、ハラスメントと企業不正はまったく別の問題ではないと
考えている。

「数字や結果への過剰なプレッシャー」という同じ土壌から
生まれることがある。 だから、ハラスメントという現象だけを
見ていても、その組織が抱えている本当の問題は見えてこない。

横浜市役所にもあった「NOと言えない構造」

このnoteを読みながら、横浜市が公表した、市長の言動に関する
第三者調査報告書を思い出した。

報告書で私が注目したのは、市長の個々の言動だけではない。
上位者の意向に沿わなければ人事上の不利益を受けるのではないか
という懸念、職員の萎縮、そして本来であれば働くべき組織内部の抑止
や牽制が十分に機能しなかったという点である。

つまり、問われているのは「誰が何を言ったか」だけではない。
なぜ、周囲は止められなかったのか。
ここに組織の問題がある。

ラグビーと市役所。
接点などないはずの二つの世界である。
だが、そこには共通する構造がある。
上の人に異論を言えば、自分の立場が危うくなるかもしれない。
評価に響くかもしれない。
試合に出られなくなるかもしれない。
異動させられるかもしれない。
そう感じれば、人は次第に黙る。

そして怖いのは、その沈黙が一人で終わらず、組織全体へ
広がっていくことだ。
パワーハラスメントを「問題のある上司」の話だけで終わらせれば、
この構造を見落とす。
その上司自身は、その上にNOと言えているのか。
その幹部は、トップにNOと言えているのか。

不安を抱えた人間が、その不安をさらに立場の弱い人間へ流す。
ここに、ハラスメントが連鎖する理由の一つがある。

心理的安全性は、数字の前で機能するのか

企業では最近、「心理的安全性」という言葉がよく使われる。

「何でも言ってください」
「異論を歓迎します」
「困ったら相談してください」
もちろん大切である。

だが、その一方で、
「数字は絶対達成しろ」
「失敗は許されない」
「未達なら評価を下げる」
というメッセージが流れていたら、人はどちらを信じるだろうか。

私は、組織の本当の価値観は、掲げる言葉には現れないと思っている。
何かと何かが衝突したとき、どちらを優先するのか。
そこに現れる。

人の安全と数字がぶつかったとき。
コンプライアンスと利益がぶつかったとき。
部下の健康と納期がぶつかったとき。
組織はどちらを選ぶのか。
社員は、その判断を見ている。
「人を大切にする」と書かれた理念よりも、数字と人がぶつかった
瞬間に経営が何を選んだのかを見ている。

そこで数字ばかりが優先されれば、「何でも言ってください」
と言われても、社員は本当のメッセージを理解する。

結局、数字の方が大事なのだ、と。

心理的安全性は、制度やスローガンだけではつくれない。
評価や処遇、そして経営の判断まで含めて、「本当に言っても大丈夫だ」と感じられる環境がなければ、絵に描いた餅で終わる。

「上が止める」しかない

山川選手の記事で、最も考えさせられた言葉の一つがある。
「上が『止める』しかない」
現場の指導者が「他チームはやっているのに、自分たちだけ止めたら
負ける」と不安を抱くなら、現場だけに判断を委ねてはいけない。
全チームに共通するルールをつくり、一定の条件になれば必ず止める。
重要なのは、そのルールが指導者を処罰するためだけのものではないということだ。

むしろ、指導者自身を「止めたくても止められない状況」から守るための仕組みでもある。

これは企業のガバナンスにも通じる。
「現場で適切に判断してください」
「コンプライアンスを守りながら数字も達成してください」
それだけでは足りない。

現場には利害がある。
評価がある。
競争がある。
だからこそ、組織として、
「ここから先はやってはいけない」
という線を引く必要がある。

良いルールとは、人を縛るだけのものではない。
正しい判断をしたい人間が、正しい判断をできるように守るものだ。
「死ぬために練習しているんじゃない」
そして、山川選手の記事には、私の胸に強く刺さった言葉が
もう一つあった。

「熱中症で死んだら、プロとか関係ない。
僕らは強くなるために練習しているのであって、死ぬために
練習しているんじゃない」

この言葉を読んだとき、私は仕事もまったく同じではないかと思った。

私たちは成果を出すために働いている。
会社を成長させるために働いている。
プロとして責任を果たすために働いている。
しかし、心身を壊すために働いているのではない。
まして、死ぬために働いているのではない。

「プロなんだから」
「管理職なんだから」
「給料をもらっているんだから」
「それくらいのプレッシャーには耐えるべきだ」
そんな言葉が、人の限界を見えなくさせることがある。

上司からのパワーハラスメントによって人が追い詰められ、
命まで失うことになったら、プロかどうかなど関係ない。
成果を出すことと、人の命や健康を犠牲にすることは、
まったく別の話である。

「メンタル」という言葉で、人の苦しみを軽くしていないか

私は、「メンタル」という言葉があまりにも簡単に使われていることにも違和感がある。
「メンタルが弱い」
「もっとメンタルを鍛えた方がいい」
「心の風邪みたいなものだから」
そんな言葉を耳にすることがある。
しかし、人の心が壊れていく苦しさを、そんな簡単な言葉で
片づけていいのだろうか。
私は時々思う。
メンタルの疾患を軽く見るのなら、その苦しさを経験してから言
ってほしい、と。
もちろん、同じ経験をしなければ人の苦しみを理解できない、
と言いたいのではない。

人は、他人の痛みを完全に経験することなどできない。
だからこそ必要なのが、想像することなのだと思う。
私はそこに、「同悲同喜」という言葉を重ねたい。
人の悲しみを自分の悲しみとして感じ、人の喜びを自分の喜び
として感じる。
同じ痛みを経験していなくても、その人が何を感じ、どれほど
苦しんでいるのかを想像しようとすることはできる。

職場に必要なのは、「もっと強くなれ」と突き放す人ではなく、
「この人はいま、どれほど苦しいのだろう」
と想像できる人ではないだろうか。
そんな想いを持てる人が、上司にも、同僚にも、そして経営者にも、
もっと増えてほしいと思う。

「本人の自己管理」で片づけてはいけない

山川選手は、もし自分が最悪の結果になっていたら、
「走り込みが足りなかったんじゃないか」
「体調が悪いなら申告すればよかった」
「自己管理ができていなかったんじゃないか」
と言われたかもしれない、と書く。

そして、こう続ける。
「僕は、言えなかっただけです。」

この一文は重い。

企業でも同じことが起きる。
「つらかったなら早く相談すればよかった」
「無理なら断ればよかった」
「自分で体調管理すべきだった」
しかし、言えない職場をつくっておいて、問題が起きたあとで
本人の自己責任へ差し戻す。
それでは何も変わらない。

むしろ、次に同じ状況になった人もまた言えなくなる。
「NOと言えなかった人」に勇気がなかったのではない。
「NOと言ったら何かを失う」と感じさせる組織だったのではないか。
そこを問わなければならない。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である

私は、ハラスメントとは、人と組織を映す鏡だと思っている。
誰かが強い言葉を使った。
部下を追い込んだ。
その行為だけを切り取れば、「問題のある上司」という結論で終わる。
もちろん、行為者の責任がなくなるわけではない。
しかし、そこで思考を止めてはいけない。
その背後には何があったのか。

過剰な目標。
評価への不安。
失敗を許さない空気。
「みんなやっている」という同調圧力。
上に異論を言えない関係。
そして、人よりも数字と結果を優先する組織の価値観。
そこまで見て初めて、なぜその職場でハラスメントが起きたのかが
見えてくる。

ラグビーのグラウンドで「休ませてください」と言えなかった選手。
市役所で上位者に異論を言えなかった職員。
会社で上司に「それは無理です」と言えない部下。
舞台はまったく異なる。
だが、突きつけてくる問いは同じだ。

あなたの会社では、部下は上司に「NO」と言えるだろうか。
そして、
その上司は、さらに上の人間に「NO」と言えるだろうか。
経営幹部は、トップに「それは違う」と言えるだろうか。

もし、誰もNOと言えない組織だとしたら。
その組織で本当に守られているのは何だろう。
人なのか。
それとも、
数字なのか。

「強くなるために練習しているのであって、
死ぬために練習しているんじゃない」

この言葉を、私は働く世界にも置き換えて考えたい。
私たちは、成果を出すために働いている。
成長するために働いている。
誰かの役に立つために働いている。
心身を壊すために働いているのではない。
まして、死ぬために働いているのではない。

そして最後に、もう一度問い直したい。

「NO」と言えないのは、本当にその人の勇気の問題
なのだろうか。

それとも、

「NO」と言わせない組織の問題なのだろうか。

引用出典
・yamakawa_ rikyu(山川力優 氏)
「なぜラグビーは夏に過酷な練習をやめられないのか〜『負ける不安』が選手を追い詰める〜」note (2026年8月15日)
・横浜市「横浜市長の言動にかかる第三者による調査 調査報告書」(2026年7月30日)

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、 
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#ラクビー
#横浜市役所
#NOと言えない組織
#ハラスメント

「どっちが正しいんだよ問題」とどう向き合うか ― 真逆の価値観がぶつかる職場でうまくやる考え方とは ―

会社という場所は、価値観の見本市である。

プロジェクトが行き詰まったとき、「やればできる。最後まで諦めるな」と背中を押す上司がいる。
その隣で、「無理なものは無理。現実を見よう」と冷静に言う上司もいる。
どちらの言い分も、聞けば頷ける。
だからこそ、部下は心の中でこう呟くことになる。
「で、どっちなんだよ」と。

今日はこの、職場という舞台で毎日のように起きている「どっちが正しいんだよ問題」を考えるうえで、なかなか面白い一冊を紹介したい。

ペズル著『どっちもある名言集』(ライツ社)。

この本の仕掛けは単純にして意地が悪い。
一つのテーマに対して、まったく逆のことを言っている名言を、平然と並べてくるのである。
読み進めるうちに、「正しい答えは一つではない」という、わかりきっているのに日々忘れられていく事実を、こちらの胸ぐらを掴んで思い出させてくる。
私はこの本を、単なる名言集としてではなく、職場で起きる価値観の衝突を読み解くための鏡として読んだ。
存外、使い出のある一冊だった。

「できる」と「できない」は、どちらも正しい

「やればできる」という思想がある。
ネルソン・マンデラの、何事も達成するまでは不可能に見える、という言葉に通じるものだ。
一方、太宰治には「出来ない事は、出来ないと言おう」という言葉がある。
前者は可能性を信じ、後者は現実を直視する。
どちらか一方が正しく、もう一方が間違っている、というほど話は単純にできていない。

問われるべきは「どちらが正しいか」ではなく、「いま、この状況ではどちらが必要なのか」である。
この違いに気づけるかどうかが、たぶん分水嶺になる。

「未来を見るか」「現実を見るか」

同じ構図は、未来をめぐる議論にも現れる。
ヘレン・ケラーは未来への夢を語り、ピーター・ドラッカーは現実から出発することの重要性を説いた。
夢だけを見ていては、仕事は一歩も進まない。
かといって、現実ばかりを見つめていては、新しい挑戦など生まれようがない。

組織には、未来を見る人間が必要である。
同時に、足元の現実を見る人間も必要である。
問題は、考え方が違うことではない。
自分とは違う考え方を、さっさと「間違っている」と決めつけてしまう、その手早さのほうである。

仕事は「好き」で選ぶのか、「嫌い」でもやるのか

仕事についても、真逆の思想が平然と同居している。
「好きなことで失敗したほうがいい」という考え方がある一方で、「やりたくない仕事こそ自分を磨く」という考え方もある。

若い頃には前者に共感していたのに、管理職になった途端、後者の意味が骨身に染みてわかる、ということもある。
あるいは同じ人間でも、置かれた状況次第で考え方はあっさり変わる。
つまり、私たちが「正しい」と信じているものの多くは、実のところ、その人の立場・経験・成功体験・置かれた状況が勝手に組み立てたものにすぎない。正しさというより、境遇の産物である。

なぜ、職場では「正しさ」がぶつかるのか

この本を職場という補助線で読むと、面白さの正体が見えてくる。
職場で対立が起きるとき、そこにいるのは必ずしも「正しい人」と「間違っている人」ではない。

むしろ、「自分なりの正しさ」と「相手なりの正しさ」が、ただ静かにぶつかり合っているだけ、というケースのほうが圧倒的に多いのではないか。

上司には上司の正しさがあり、部下には部下の正しさがある。
営業には営業の正しさがあり、管理部門には管理部門の正しさがある。
経営には経営の事情があり、現場には現場の事情がある。

ところが人は、自分の立場からしか世界を見られない生き物である。
そのため、いつの間にか「普通はこうするだろう」「社会人ならわかるだろう」「そんな考え方ではダメだ」と、自分の基準を「世の中の基準」に静かにすり替えてしまう。
人間関係の摩擦は、たいていこの瞬間に始まる。

ハラスメントも「自分が正しい」から始まることがある

ハラスメント研修の現場で、私は長くこの問題と向き合ってきた。
もちろん、すべてのハラスメントが価値観の違いから起きるわけではない。

しかし背景を辿っていくと、加害側に「自分は正しいことをしている」という認識があるケースは、決して少なくない。

「部下を成長させるために厳しくしている」
「これくらい、自分たちの時代は当たり前だった」
「本人のためを思って言っている」
「仕事なのだから、これくらいやって当然だ」

本人の中では、筋が通っているのである。
だからこそ厄介なのだ。

自分が間違っていると思っている人よりも、「自分は正しい」と確信している人のほうが、自分とは違う価値観に気づきにくい。皮肉なもので、確信の強さと視野の狭さは、しばしば比例する。
そして、立場や権限を持つ者の「正しさ」が肥大化すればするほど、相手は反論する余地を失っていく。

問題は「価値観が違うこと」ではない。
一つの価値観だけが絶対的な正解になり、ほかの価値観が声を上げられなくなること、それこそが問題なのである。

職場に「どっちもある」があるか

ここで視点を、個人から職場や組織へと広げてみたい。
「違う意見もあるよね」と言える職場だろうか。
上司と違う意見を口にしたとき、ちゃんと聞いてもらえるだろうか。
「私はそうは思いません」と言った人間が、面倒な人として扱われてはいないだろうか。

経営の方針に対して、現場から「それは無理です」と言えるだろうか。
もし、一つの「正しさ」しか許されない組織になっているとしたら、
問題は個人のコミュニケーション能力などという小さな話では済まない。
そこには上司と部下の力関係、職場の空気、心理的安全性、組織文化、そして経営が何を大切にしているのか、という根の深い問題まで絡んでくる。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である。
一人の問題行動だけを見るのではなく、「なぜ、この職場では一つの正しさだけが強くなったのか」まで踏み込んで考える必要がある、と私は思っている。

自分の中に「与党と野党」を持つ

『どっちもある名言集』の「おわりに」に、印象的な一文がある。
この本で大切なのは、深く共感した名言よりも、その隣にある逆視点の名言のほうだ、というのである。
私はこの考え方が、わりと好きだ。

人はどうしても、自分の考えを支持してくれる情報ばかりを集めたくなる生き物である。
だからこそ必要なのが、自分の中に「与党と野党」を飼っておくことだ。

「自分はこう思う。でも、逆から見たらどうだろう」
「部下から見たら、この指示はどう見えるだろう」
「自分の成功体験は、本当に今の時代にも通用するのだろうか」
「自分が間違っている可能性はないだろうか」

こうした小さな問いを自分の中に持つだけで、相手との関わり方は変わる。 私は、白洲次郎の「半分の人間に嫌われるくらいの仕事をするべき」という考え方にも共感する。

しかし、それに共感する自分がいるからこそ、反対側の考え方にも目を向けておきたい。
それが、この本を読んで改めて感じたことである。

「どっちが正しい?」から「なぜ、そう考える?」へ

職場で意見が対立したとき、私たちはつい「どちらが正しいのか」を決めたくなる。
しかし本当に必要なのは、勝ち負けを決めることではないのかもしれない。

「なぜ、あなたはそう考えるのか」
「なぜ、私はこう考えているのか」

そこに目を向けることである。

相手の価値観を理解することは、相手に同意することではない。
違う考えを持ったままでも構わない。
それでも、相手には相手なりの背景がある、と考えることはできる。
その余白がある職場では、意見の違いは「対立」ではなく「対話」になる。逆に、その余白が消えたとき、「自分の正しさ」が相手を追い詰める凶器に変わる。

今回紹介した『どっちもある名言集』。
ぜひ「おわりに」を読んだあと、もう一度最初からページをめくってみてほしい。
今度は、自分が共感する言葉ではなく、「自分なら選ばないほうの言葉」に注目してみる。
それは、自分とは異なる価値観を理解し、物事を一歩引いて見るための、地味だが効くトレーニングになる。

そして最後に、自分の職場について考えてみてほしい。

私たちの職場には、「どっちもある」と言える余白が、はたしてあるだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#価値感
#正しさ
#パワハラ

なぜ、「赤ペン先生」の言葉は人を伸ばせるのか。-ハラスメントについて考え続けてきた私が、管理職におススメの一冊

「ちゃんとほめているつもりなのに、部下に響いていない気がする。」
そんな経験はないでしょうか。

最近は、ほめ方や叱り方、1on1など、管理職向けのコミュニケーション研修も数多く行われています。パワハラにならないための、予防としての部下指導・コミュニケーション研修です。

もちろん、そうした研修はとても大切です。ただ、どんなテクニックを学ぶより先に、もっと根本的なものがあるのではないか。そんなことを考えさせられた一冊がありました。

それが、『赤ペン先生のほめ方 プロは「白紙」でもほめる。』(佐村俊恵著・ダイヤモンド社)です。
著者は「進研ゼミ」で20年以上、子どもの答案と向き合ってきた”赤ペン先生”。管理職の部下対応にも、そのまま使える視点が数多く詰まっていました。

目的は「成績」ではなく「自己肯定感」

進研ゼミが大切にしているのは、成績の向上そのものではありません。自己肯定感を育てることだといいます。だから赤ペン先生には「子どもを絶対に否定しない」姿勢が求められます。
「教えてあげる」「評価してあげる」という上から目線ではなく、
「成長を応援する」という立ち位置。
部下を「指導する対象」と見るか、「成長を支える相手」と見るか。
この違いは、日々の言葉の端々ににじみ出ます。

白紙にも「提出してくれてうれしい」

最も印象に残ったのが、白紙の答案への対応です。普通なら「次はちゃんとやろうね」と言いたくなる場面で、赤ペン先生は「提出してくれてうれしかったよ」と声をかけるそうです。
評価しているのは結果ではなく、「提出した」という行動そのものです。

職場でも、成果ばかりに目が向きがちになります。もちろん成果は大切です。しかし成果の手前には、「相談する」「挑戦する」「まずやってみる」という行動があります。
「相談してくれてありがとう」
「まず提出してくれてありがとう」。
この一言があるだけで、人は「またやってみよう」と思えるものです。
最初の一歩を認めることが、次の挑戦につながります。

「次は頑張ろう」が、相手を傷つけることもある

うまくいかなかった相手への「次は頑張ろう」。
励ましのつもりで、何度も使ってきた言葉です。
だが、これは「今回は頑張っていなかった」という意味に受け取られることがあるそうです。だから赤ペン先生は「よく頑張ったね」と伝えます。まず認めるのは「頑張った」という事実です。

管理職は、つい過程を見ずに(出来て当然)、次の目標に目を向けてしまいます。しかし本人は、すでに精一杯やっていることが少なくありません。まず努力を認める。その積み重ねが信頼をつくるのだと思います。

比べる相手は「他人」ではなく「過去の本人」

赤ペン先生には、他の子と比べるという発想がありません。「○○ちゃんはできていたよ」ではなく、「先月よりできるようになったね」。比べる相手は、他人ではなく過去の本人です。

他人との比較は、劣等感を生みやすくなります。一方で、「以前より説明がわかりやすくなったね」と自分自身の成長を認めてもらえると、「また頑張ろう」という気持ちになります。人を育てるのは競争ではなく、成長の実感なのかもしれません。

「すごい!」だけでは伝わらない

「すごいね」。この言葉だけで終わらせないのが赤ペン先生です。何が良かったのかが、これでは伝わりません。

職場でも同じではないでしょうか。「すごいね」だけでは響きません。「この資料は、結論が最初に書かれていて、とても分かりやすかった。」具体的に伝えられて初めて、「ちゃんと見てくれている」と感じられます。人は評価されること以上に、「見てもらえている」と感じたときに安心できるのだと思います。

「ちゃんと」は、実は伝わらない

「ちゃんと読みなさい。」と言われても、何をどうすればいいのかは分かりません。だから赤ペン先生は「ゆっくり読んでみよう。」「声に出して読んでみよう。」と、具体的な行動で伝えるそうです。

「主体的に」「丁寧に」「しっかり」。管理職は、つい抽象的な言葉を使いがちです。相手が実際に行動できるレベルまで具体的に伝えること。それが本当のコミュニケーションなのだと思います。

世代によって、伝わる表現は違う

本書には、赤ペン先生が「花まる」を何種類も使い分けているという話も紹介されています。ベテランになると、100種類以上のバリエーションを持っている人もいるそうです。気持ちを伝える工夫と言えるでしょう。

オンライン研修でも、同じことを感じます。20代の参加者はリアクションボタンやスタンプを積極的に使ってくれます。一方で、50代、60代になると、ほとんどリアクションがありません。
「軽い」と感じる人もいるのでしょう。
しかし若い世代にとっては、こうした小さなリアクションが
「見てもらえている」
「受け止めてもらえている」という安心感につながっています。
伝える内容だけでなく、伝え方も相手に合わせて工夫することが大切なのだと感じました。

「今のままでいていい」と伝えること

現在、日本では不登校の子どもが35万人を超えているそうです。
そんな中で、赤ペン先生は「今のままでもいていいんだよ」という、
存在そのものを認める姿勢を大切にしています。
「できる」「できない」、「結果が出た」「出ない」。
その前に、「あなたがここにいてくれること」を認める。

この姿勢は、職場でも決して無関係ではありません。
人は、自分が否定されないと感じられたときに、
初めて安心して挑戦できます。

おわりに

この本を読んで改めて感じたのは、「ほめる」とは話し方のテクニックではないということです。相手をよく見ているか。努力や成長を見逃していないか。その姿勢があるからこそ、言葉には説得力が生まれます。

「提出してくれてありがとう。」
「相談してくれてありがとう。」
「先月より説明が分かりやすくなったね。」
どれも特別な言葉ではありません。

しかし、こうした一言の積み重ねが、「この上司は自分を見てくれている」という信頼につながります。
部下を育てるのは、特別な話術ではありません。相手の変化を丁寧に見つけ、それを言葉にして伝えること。

そろそろ、「パワハラにならない部下指導」という、テクニカルの鎧を脱いでみてはどうでしょうか。

あなたも一度、赤ペン先生に添削してもらうといいかもしれません。ヒントは、案外シンプルなところにあるのだと思います。

是非、皆さんのご一読ください。おススメします。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
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言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
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「以心伝心の暴力」 になることもあります。
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#脱、パワハラにならない部下指導
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