月別アーカイブ: 2026年10月

ヤンキーの恋愛番組に、パワハラ上司の正体を見た

それぞれに、過去がある。
後悔がある。傷がある。
そんな男女が沖縄に集まり、14日間を共にする。
Netflixの恋愛リアリティシリーズ『ラヴ上等』シーズン2である。
番組そのものも面白かったのだが、私がさらに興味を引かれたのは、
その後にYouTubeで観た一本の解説動画だった。

犯罪心理学者の出口保行さんと婚活アドバイザーの植草美幸さんが、
『ラヴ上等』シーズン2で起きた出来事を、それぞれの専門家の視点から
読み解いていた。
それを観ていて、私は思った。

ここで語られている人間の心理は、パワハラが生まれる職場のメカニズムと、
驚くほどよく似ている。

「ナメられたら終わり」という世界観

ヤンキーの世界では、「メンツ」が重要になる。
ナメられたくない。引いたら負け。
だから、些細な一言に火がつくことがある。
言葉の中身だけではない。
「誰が、誰に、どの場で言ったか」に反応する。

これ、どこかで見た光景ではないか。

会議で部下が、上司の案に異を唱える。
内容はまっとう。むしろ正しい。
それでも上司は顔色を変える。
「お前、誰に向かって言ってるんだ」
怒っているのは、意見の中身にではない。
部下に意見されたという「構図」にである。
服装が変わり、職場という場所に移っても、同じようなことは起こる。

「総長」という立場が、例えば「部長」に変わっただけで、
上下関係へのこだわりが残っていることはないだろうか。

怒りの奥にあるもの

パワハラ行為者と面談すると、こんな言葉を耳にすることがある。
「ナメられたら、組織は回らない」
一見、勇ましい言葉である。
だが、その奥には別の感情が隠れていることもある。

ナメられることへの恐れである。
立場を失う恐れ。
能力を見透かされる恐れ。
若手に追い抜かれる恐れ。
そうした不安が、威圧という形で現れることがある。

だから私は研修で、怒りそのものだけを見るのではなく、
その手前を考えてもらう。
「あなたは、そのとき何を守ろうとしたのか」
ここに目を向けると、怒りの景色が変わってくる。

過去の人間関係は、その後にも持ち込まれる

YouTubeの解説で、もう一つ印象に残った話がある。
DV被害の経験が、その後の恋愛に与える影響についてである。
DVの被害を受けることで自尊心が低下し、何か問題が起きたときに
「自分が悪い」と考えやすくなる。
そして、相手の機嫌を損ねないように振る舞うことがある、という話だった。

出口さんは、これまで多くの非行少年や犯罪者を分析してきた経験から、
家庭の問題の影響についても語っていた。
もちろん、家庭環境や過去の傷があるから、将来パワハラをするという
話ではない。
私が興味を持ったのは、もっと別のところである。

人は、過去の人間関係の中で身につけた「生き方」を、その後の人間関係
にも持ち込むことがある。

これは職場でも同じではないだろうか。
特に、昭和の薫陶を受けてきた世代には、どこか見覚えがないだろうか。

「上司の言うことは絶対」
「口答えするな」
「若いうちは黙って言われたことをやれ」
「仕事は見て盗め」
「怒られて一人前になる」
自分もそうやって育てられた。
そして、それで仕事を覚え、管理職になった。

だから今度は、自分が部下に同じことをする。
「俺たちの頃は、もっと厳しかった」
「これくらいでへこたれてどうする」
本人にとって、それは必ずしも「攻撃」ではない。
むしろ、自分を成長させてくれた「正しい指導」だと思っていることさえある。

ここに、パワハラ防止の難しさがある。

過去に適応するために身につけた価値観が、立場と時代が変わったとき、
今度は誰かを追い詰めるものになることがある。

だから、「パワハラをしてはいけません」と教えるだけでは変わらない。

「あなたは、どんな上司のもとで働いてきたのか」
「そこで、何を当たり前だと学んだのか」
「その当たり前は、今の部下にも本当に必要なのか」

そこまで振り返る必要があるのだと思う。

沈黙は、同意ではない

そして、この構造にはもう一方の側がある。
強い叱責を受け続ければ、部下の側も学習する。

意見すれば不機嫌になる。
反論すれば、さらに叱られる。
人前で否定される。

だったら、何も言わないほうがいい。
口を開くたびに損をする、と。
そして職場から異論が消えていく。
上司は誤解する。
「うちのチームはうまくいっている。誰も文句を言わない」
しかし、沈黙は同意とは限らない。
言いたいことがないのではなく、言っても無駄だと学習した結果かもしれない。

「これくらいなら」が、境界線をずらしていく

そしてYouTubeの解説で、私が最も興味を引かれたのが「モラルスリップ」
という話だった。
番組では、お酒を飲んではいけないルールの場面で、
「ちょっとくらいなら」
「これくらいならわからないだろう」
とルールを破ってしまう場面が取り上げられていた。

小さな逸脱が許される。
何も起こらない。
すると、次はもう少し先まで行く。

このメカニズムを見た瞬間、私はパワハラと同じだと思った。
「これくらい叱っても大丈夫だろう」
「この程度なら指導の範囲だろう」
「自分も昔、同じように指導された」

最初は、少しきつい口調。
次は、皆の前での叱責。
さらに、人格に踏み込むような一言。
少しずつ境界線がずれていく。

これは、ハラスメントだけの話ではない。
例えば、会社のお金に手をつける不正もそうかもしれない。
「この程度ならバレないだろう」
「あとで戻せばいい」
「今回だけなら」
行為の種類はまったく違う。
しかし、メカニズムを見るとよく似ている。
「これくらいなら大丈夫」という小さな自己正当化が、
次の「これくらい」を生んでいく。
だから私は、重大なハラスメントだけを見ていてはいけないと思う。
その前に、必ず小さな境界線のズレが起きていないだろうか。

裁かれるべきは、本人だけか

ここで、人事・コンプライアンス部門に問いたい。
事案が起きる。
行為者を処分する。
研修を受けさせる。
それで、再発防止になったと言えるのか。
なぜ、誰も止めなかったのか。
なぜ、上司の上司は気づかなかったのか。
なぜ、「数字を出しているから」で済まされてきたのか。
成果を上げる管理職の暴言を、組織が黙認する。

これは黙認ではない。承認である。

「その程度なら構わない」という、組織からのお墨付きになるからだ。
問われているのは、組織が「人」と「数字」のどちらを優先しているかである。

「多少問題があっても、数字を出しているから」

この一言を組織が許した瞬間、管理職は学習する。
結果さえ出せば、このやり方は許される、と。
問題の管理職だけを切り離して処分しても、土壌が残れば、
別の誰かが同じことを始める。

行為者だけの問題に見えて、実は、その行動を許してきた
組織の問題でもある。

不良たちは、正直である

『ラヴ上等』の参加者たちは、感情をむき出しにする。
ぶつかり、怒り、ときには泣く。
見方によっては、誠実ですらある。
職場のハラスメントは違う。
スーツを着て、敬語の衣をまとい、「指導」という
名札をつけてやってくる。

だから見えにくい。だから厄介なのである。
人を見るだけでは足りない。

その人が、どんな価値観を身につけてきたのかを見る。

その人を許してきた職場を見る。

その職場をつくった組織を見る。
「あの人は、ああいう人だから」
「昔から厳しい人だから」
「数字を出しているから」

そう言って目を逸らした瞬間、組織は次の「これくらいなら」を
許すことになる。

あなたの職場では、その小さな違和感に誰が気づき、誰が声を上げ、
誰が止めることになっているだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、 
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

「懐かしがっている場合ではない」-映画『ファーストボイス 前代未聞の逆転裁判』 最後の一文に突きつけられたもの

映画『ファーストボイス 』を観た。

映画の感想は、ほかの人に任せる。私は、映画の中身は語らない。
語りたいのは、エンドロール直前のたった一文だけだ。
描かれるのは1989年。

会社の中のセクハラと、それを当たり前とする男たちの意識。
この時代の裁判を、私はこれまで文章でしか知らなかった。
それが初めて立体になった。物語はフィクションだが、現実とほぼ重なる。
映画として、面白かった。

面白かった。だから油断した

最後に、スクリーンに一文が浮かんだ。
今も、セクハラは止まっていない。

正確な文言は覚えていない。だが、そういう趣旨だった。
それで十分だった。

一気に現実に引き戻された。37年前と変わらない。その事実を、
真正面から突きつけられたのである。

誰も振り返らない一文

観終わってから、ネットの感想を読み漁った。
ボディコンスーツが懐かしい。法廷シーンがスカッとした。
主演がよかった。
あの一文に触れた感想は、ほとんど見当たらなかった。

驚いた。だが、すぐに腑に落ちた。多くの人にとって、
これは「昔の話」なのだ。最後の一文が「今の話だ」と
告げているのに、誰も振り返らない。

素通りされる一文。
それこそが、37年変わらなかった理由ではないか。

失われた30年ではない、止まったままの37年

この映画を観に行く人に、セクハラ行為者はいないと信じたい。
おそらく、いない。問題は、観に行かない人だ。

講師として断言する。
ここ数年、セクハラ研修の依頼はむしろ増えている。
ゼロになる気配はない。
求職者へのセクハラ、いわゆる就活セクハラは、ついに法律で
防止措置が義務づけられる時代になった。
法律が要るほど、止まっていないということだ。

相談の中身も変わらない。
相変わらずのボディタッチ。休憩中にスマホでアダルト動画を見る社員。
男性同士のセクハラ。社内でのストーカーまがいの行為。体型容姿いじり。
挙げればきりがない。
大きく報じられることは少くない。
だが、苦しんでいる人は確かにいる。

自社を志望してくれた学生を、傷つける大人

特に伝えたいのは、休職者等に対するセクシャルハラスメント
(旧:就活セクハラ)だ。

自社を志望してくれた学生に、セクハラをする。その結果、
入院した学生がいる。メンタルクリニックに通い、薬を飲み続けている
学生がいる。
厚生労働省の調査にも、その実態ははっきりと表れている。
会社の看板を背負った採用の場で、未来の仲間を陥れる大人がいる。
これが、今この国で起きている事実である。

エンドロールは、宿題だった

「昔はひどかったね」と笑える日は、まだ来ていない。

懐かしがっている場合ではない。エンドロール前のあの一文は、
過去の物語の締めくくりではなかった。
今を生きる私たちへの宿題だったのではないか。

制度でもない。マニュアルでもない。
未来を担う若い人を、どうか大事にできる大人を育ててほしい。

エンドロールが終わっても、あの一文だけは消えなかった。

宿題は、まだ終わっていない。
だから、私は、明日も研修の場に立つ。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
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職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
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考えてはいけないことを、考えてみた。


『考えてはいけないことリスト』というタイトルに、つい手が伸びた。
著者は言語学者・堀田秀吾氏。

世界中の学術論文をもとに、「私たちが考えないほうがよいこと」を紹介した
一冊である。
読み進めていると、なぜか職場のことが次々と頭に浮かんできた。
特に目に留まったのが、「空気」「世間体」「みんなと同じ」という三つの言葉。

企業研修の現場でよく耳にする、

「若手社員から新しい提案が出てこない」
「最近の若い人は挑戦しなくなった」

という嘆きとも、驚くほど地続きだった。

「空気を壊したかも」という思い込み

「空気を読む」ことを、日本人はことのほか重んじる。
会議でも雑談でも、

「今、これを言うべきか」
「変に思われないか」
「みんなと違うことを言って大丈夫か」

そう周囲を窺いながら話す人は少なくない。
だが堀田氏によれば、「空気」の正体とは、
その場にいる人たちが無意識に
共有する前提や共通認識だという。

そして、その前提は人によって違う。
最初から全員が同じ空気を共有しているわけではないのだ。
会話とは、違いをすり合わせながら共通理解をつくっていく作業。
だとすれば、「空気を読む」という言葉自体が、
少し誤解を生みやすいのかもしれない。

空気は、読むものではない。つくるものである。

「そんなことを言ったら空気が悪くなる」
「今さら反対意見は言いづらい」
職場でよく聞く言葉である。
しかし、異論が出るからこそ議論は生まれ、結論は磨かれる。
空気を壊すことを恐れるあまり、誰も本音を言わなくなる組織。
私は、そちらのほうがよほど深刻な問題だと思う。

「世間体」という見えない圧力

もう一つが、「世間体が悪いのではないか」という発想である。
空気と世間体は似ている。
空気が職場など比較的小さな集団の中で働く圧力だとすれば、
世間体は、より広い社会から自分がどう見られているかを意識することだろう。

「失敗したら恥ずかしい」
「変な人だと思われたくない」
「周囲から浮きたくない」

こうした感情は、私たちの行動を静かに縛る。

しかも今はSNSがある。
見知らぬ誰かの批判まで目に入ってくる時代である。

「目立たないほうがいい」
「余計なことは言わないでおこう」
「黙っているほうが安全だ」

そう考える人が増えても不思議ではない。
問題は、その感覚が職場にも持ち込まれたときである。
誰も反対意見を言わない。
誰も新しい提案をしない。
誰も挑戦しない。
そんな組織が、少しずつ出来上がっていく。

「みんなと同じ」は、本当に正解か

堀田氏は、「みんなと同じでいたい」という心理にも触れている。

集団に受け入れられたいという欲求そのものは自然だ。
問題は、それが行き過ぎたときである。

「普通はこうだ」
「みんなそうしている」
「そんなことをする人はいない」

こうした言葉が増えるほど、異質なものへの許容度は下がっていく。
私はハラスメントを考えるとき、この「普通」という一語を警戒している。

ハラスメントは、行為者個人の性格だけから生まれるものではないからだ。
「これくらい普通だ」
「昔からこうやってきた」
「みんな我慢している」

そんな空気が、問題のある言動を静かに許容してしまうことがある。
歴史の長い企業を訪ねると、そこには長年積み重ねられてきた独自の文化がある。
文化そのものが悪いわけではない。むしろ企業の強みになっている場合も多い。

しかし、その文化が固定化されたとき、「違う考え」の入り込む余地がなくなっていく。
会議で誰も異論を言わない。
新しい提案が出てこない。
これまでのやり方を変えようとする人がいない。
そんな組織を、私は研修の現場で何度も見てきた。

「若手が挑戦しなくなった」のか、それとも

「若い人たちが挑戦しなくなった」
「前提をくつがえすような提案が出てこない」
管理職からこの手の相談を受けるたび、私は一度立ち止まる。
それは本当に、若手社員だけの問題なのか。
以前、ある方からこんな話を聞いた。
回転寿司でマグロに七味唐辛子をかけて食べていたところ、周囲から、
「え、それはおかしい」
「普通はそんな食べ方しない」
と言われたという。
本人はその場では聞き流した。
だが後になって、
「自分を否定されたような気持ちになった」
と話していた。
もちろん、マグロに七味をかけるかどうかなど、たいした話ではない。
かけてもいいし、かけなくてもいい。本人が好きなように食べれば
いいだけのことである。

私が気になったのは、そこではない。
そんな小さな違いに対してさえ、「おかしい」「普通はそうしない」
という言葉が出てくることだ。
言った側に悪気はなかっただろう。ただの雑談だったに違いない。
しかし、「おかしい」「普通はこうする」という言葉には、思っている
以上の力がある。
それが日常の中で繰り返されれば、
「自分の感覚は、この職場では受け入れられない」
「みんなと違うことは言わないほうがいい」
と感じるようになるかもしれない。
若手から新しい提案が出てこない理由の一端は、こうしたところにも
あるのではないか。
日常では「普通はこうだ」と違いを否定しておきながら、
会議になった途端、

「若手らしい自由な発想を出してほしい」
「前例にとらわれない提案がほしい」
と求める。

少し虫のいい話ではないか。
人は、会議室に入った瞬間だけ自由に発言できるようになるわけではない。
日常の何気ない会話の積み重ねこそが、
「ここでは違うことを言っても大丈夫だ」
という感覚を育てていく。

失敗を責める組織に、挑戦は生まれない

「失敗したら人生が終わる」という考えも、本書では手放したほうが
よいものとして紹介されている。

たしかに現代社会には、失敗に厳しい面がある。
SNSでは失敗が拡散され、職場でもミスを厳しく責められることがある。
しかし、一つの失敗は一つの出来事であって、人生そのものではない。
むしろ失敗から学べることも多い。

これは組織にも当てはまる。
失敗した人を責める組織では、人は「失敗しない方法」を考え始める。

挑戦しない。
余計な提案をしない。
これまで通りにやる。
そのほうが安全だからだ。

「みんなと違うことをするな」という空気と、「失敗するな」という空気。
一見、別のものに見える。
しかし私は、根っこは同じではないかと思っている。

決められた枠から外れることを、どこまで組織が許容できるか。
それが問われているのではないだろうか。

「若手の問題」の前に、組織の空気を見る

堀田氏は自分軸を保つ方法として、他人ではなく過去の自分と比較することや、
「わからないものはわからない」と認めることを挙げている。
特に後者は、職場でも重要だと思う。
「上司はきっとこう思っている」
「みんな私を評価していない」
「こんなことを言ったら嫌われるかもしれない」
わからないはずの他人の気持ちを想像し、その想像によって自分の行動を
止めてしまう。

ただ、私はそれを単なる「本人の思い込み」で片づけたくない。
「そんなことを言ったら怒られる」
「失敗したら責められる」
「変な提案をしたら笑われる」
そう思わせる何かが、職場の日常に潜んでいないだろうか。
上司の表情。
誰かが否定されたときの会議の空気。
失敗した人への接し方。
「普通はこうだ」という何気ない一言。
そうした小さな出来事の積み重ねが、組織の空気をつくっていく。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である

私は、ハラスメントを考えるとき、行為者だけを見ていては不十分だと考えている。
その人の価値観や思い込みを見る。
上司と部下の関係を見る。
周囲の沈黙や傍観を見る。
そして、その背後にある組織文化を見る。
「若手が意見を言わない」という現象も、構造は同じではないだろうか。
若手の主体性だけを問題にするのではなく、
この組織は、本当に違う意見を歓迎してきたのか。
と問い直してみる。

「挑戦してほしい」と言いながら、失敗した人を責めていないか。
「自由に意見を言ってほしい」と言いながら、上司と違う意見を言った人
を面倒な人として扱っていないか。
「若手ならではの発想がほしい」と言いながら、日常では「普通はこうだ」
と違いを否定していないか。

自分と違う考えや行動を見たとき、
「それはおかしい」
「普通はそんなことをしない」
とすぐに判断するのではなく、
「そういう考え方もあるのか」
「それはおもしろい」
と、まず受け止めてみる。

そんな日常の小さな反応の積み重ねが、
「ここでは自分の意見を言っても大丈夫だ」
という感覚につながっていくのだと思う。
違いを認め合える職場をつくること。

それはハラスメントを防ぐことだけではない。
新しい意見や挑戦が生まれる組織をつくることにもつながっている。
『考えてはいけないことリスト』を読みながら、そんなことを考えた。
マグロに七味をかけるかどうかは、どうでもいい。
しかし、そんな小さな「違い」を、私たちが日常の中でどう扱って
いるかは、どうでもよくない。

「おかしい」
「普通はそうしない」
「みんなこうしている」

そんな何気ない言葉の積み重ねが、いつの間にか、
「違うことを言わないほうがいい」
という空気をつくっているかもしれないからだ。
もし今、あなたの職場で、
「若手から新しい提案が出てこない」
と感じているとしたら。
「なぜ若手は提案しないのか」と考える前に、もう一つ、
考えてみてもいいのかもしれない。

私たちの職場は、「普通」から外れても大丈夫だと思える
場所になっているだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。