前回は、ダーク・リーダーシップのもとで生まれる「逆境による連帯」について書きました。一見すると仲がよく、助け合っているように見えるチームでも、その結束が共通の目的ではなく、共通の恐怖や不満から生まれていることがある。つまり、「仲がいい職場」と「健全な職場」は同じではない、という話でした。
今回取り上げたいのは、そのさらに上流にある問題です。職場のいじめやハラスメントは、どこから生まれるのか。現場の上司なのか。加害者個人の性格なのか。部下との相性なのか。もちろん、そうした要素もあります。しかし、アデレード大学のMay Young Loh氏の発表を聞きながら、私は改めてこう感じました。職場の問題は、現場だけで起きているのではない。組織の価値観が、上から下へと流れているのだ、と。
発表の中で印象的だったのが、「魚は頭から腐る」という表現でした。組織の腐敗や不健全さは、現場の末端からではなく、トップの価値観や優先順位から始まるという意味です。
ハラスメントは個人の問題なのか
多くの企業では、ハラスメントが起きると、まず個人に目が向きます。あの上司の言い方が悪い。あの部下との相性が悪い。あの管理職のコミュニケーション能力に問題がある。もちろん、個人の行動を見直すことは必要です。しかし、それだけで終わってしまうと、本当の問題を見落とします。
なぜ、そのような行動が許されていたのか。
なぜ、周囲は止められなかったのか。
なぜ、相談しても変わらなかったのか。
なぜ、数字を出す人なら多少の問題行動が見逃されたのか。
そこを見なければ、同じ問題は繰り返されます。
Loh氏の発表は、職場でのいじめや不当な扱いを、個人の性格ではなく、マネジメントの価値観と組織システムの問題として捉えていました。私はここに、日本企業が学ぶべき大きな視点があると感じました。
PSCは「原因の原因」である
今回の発表で中心にあったのが、PSCです。PSCとは、Psychosocial Safety Climate、ここでは、会社は本気で自分たちの心の安全を守ってくれると、全社員が実感できている組織の文化、風土のことです。日本語に直訳すると、心理社会的安全風土。オブラートに包まずに言い換えれば、ハラスメントを撲滅するか否かを決める、経営陣の覚悟と制度です。もっと簡単に言えば、この組織は従業員の心理的健康を本気で守ろうとしているか、という組織全体の空気です。
ただし、これは単なる職場の雰囲気ではありません。仲がいい、話しやすい、相談しやすい。それだけではPSCとは言えません。PSCは、従業員の心理的健康を守るための方針、実践、手続きが、組織の中でどれだけ共有されているかを示すものです。つまり、仕組みの問題です。
Loh氏の発表では、PSCは「Cause of the Causes」、原因の原因と位置づけられていました。ハラスメントが起きる。メンタル不調が増える。離職が増える。現場が疲弊する。多くの企業は、そこで初めて対応します。しかしPSC研究は、そのさらに前を見ます。なぜ、そのような職場になったのか。なぜ、過度なストレスが放置されたのか。なぜ、管理職が部下を守れなかったのか。なぜ、心理的健康よりも生産性が優先されたのか。ここに目を向けるのです。
生産性か、人間か
この研究が突きつけていたのは、非常に厳しい問いでした。あなたの組織は、生産性を優先しているのか。それとも、人間を優先しているのか。もちろん、企業にとって生産性は重要です。利益も必要です。成果も必要です。しかし問題は、生産性そのものではありません。問題は、生産性が人間より上に置かれることです。
過度な成果主義。過剰な内部競争。短期的な数字への圧力。結果を出せば多少のことは許される、という空気。こうしたものが積み重なると、いじめやハラスメントは単なる逸脱行動ではなくなります。成果を最大化するための手段として、事実上それが機能してしまうことがあります。発表では、これを「いじめ生産性仮説」として紹介していました。人間のニーズが軽視され、極端な生産性圧力がかかる環境では、いじめが労働を統制するための機能的なメカニズムになり得る。これは非常に重い指摘です。
会社が公式にハラスメントを認めることはありません。しかし実際には、強く詰める人が評価される、部下を追い込んでも数字を出せば許される、現場が疲弊していても結果が出ていれば問題視されない、そうした職場では、ハラスメントは禁止されているのではなく、黙認されているのかもしれません。
トップの価値観は現場に落ちてくる
組織の価値観は、言葉ではなくシグナルとして現場に伝わります。経営トップが何を評価するのか。どの行動を昇進させるのか。どの管理職を重用するのか。どの問題を見逃すのか。どこに予算をつけるのか。何を仕方ないとするのか。それらはすべて、現場へのメッセージになります。
経営層が「人を大切にする」と言っていても、実際には数字だけで評価していれば、現場はそれを学習します。経営層が「ハラスメントは許さない」と言っていても、数字を出す管理職の問題行動を見逃していれば、現場はそれを学習します。経営層が「心理的健康は大事だ」と言っていても、人員不足を放置し、過剰な目標を課し続ければ、現場はそれを学習します。つまり、現場の管理職は、トップの建前ではなく、実際に報われる行動を見ているのです。魚は頭から腐る。その言葉の意味は、まさにここにあります。
良い上司も、悪い空気には勝てない
多くの企業は、ハラスメント対策として管理職研修を行います。もちろん、管理職研修は必要です。しかし、Loh氏の発表で重要だったのは、管理職の有効性は組織全体のPSCに左右されるという点です。
PSCが高い組織では、管理職は部下を守ることに自信を持てます。部下の心理的健康を守る行動が、組織から評価されるからです。過度な生産性圧力から部下を守っても、それが管理職として正しい行動だと認められるからです。一方、PSCが低い組織では、良い上司であっても部下を守りにくくなります。部下を守れば、自分が甘いと見られる。目標達成を優先しなければ、評価されない。人を守る行動が、組織から報われない。そうなると、管理職は板挟みになります。本人に良心があっても、組織の空気がそれを無力化してしまうのです。
だから私は、管理職研修だけでハラスメント対策を終わらせることに違和感があります。管理職個人に「部下を大切にしなさい」と言いながら、組織全体では数字だけを徹底的に追わせる。これでは、現場の管理職を苦しめるだけです。
個人のレジリエンスに逃げてはいけない
最近は、従業員のレジリエンスを高める研修も増えています。ストレスに強くなる。折れない心をつくる。困難を乗り越える力を身につける。もちろん、個人の力を高めることは大切です。しかし、それを組織の責任回避に使ってはいけません。
燃え盛る火の中に人を置いて、熱さに耐える力を身につけましょうと言っているだけになっていないか。私はそこを問いたいのです。PSC研究が示しているのは、個人を鍛える前に、環境を変えなければならないということです。過度な仕事量。矛盾した評価制度。機能しない相談窓口。報復を恐れて声を上げられない空気。数字を出せば何をしても許される文化。これらを放置したまま、個人のレジリエンスだけを高めようとするのは、順番が違います。
ハラスメントは経営リスクでもある
今回の発表では、職場での不当な扱いがもたらす経済的損失にも触れられていました。世界全体で、多くの従業員が職場で不当な扱いを経験しており、それによる生産性低下は非常に大きな規模にのぼるとされています。従業員5,000人規模の組織でも、病欠、離職、生産性低下によって年間数百万ドル規模の損失が生じるという試算が、参考値として示されていました。
つまり、ハラスメントは倫理の問題であると同時に、経営の問題でもあります。人が壊れる。現場が疲弊する。優秀な人材が辞める。サービス品質が落ちる。事故やミスが増える。採用ブランドが傷つく。それらはすべて、組織のコストになります。にもかかわらず、多くの企業はハラスメントを人事の問題として小さく扱いがちです。私はここにも、日本企業の大きな課題があると感じます。ハラスメントは人事の問題ではありません。究極は、経営の問題です。
本当に見るべきもの
ハラスメントが起きた時、本当に見るべきものは何でしょうか。加害者の性格だけでしょうか。被害者の受け止め方でしょうか。管理職のスキル不足でしょうか。もちろん、それらも見る必要があります。しかし、それだけでは足りません。本当に見るべきなのは、組織の上流です。
トップは何を優先しているのか。どんな管理職が評価されているのか。部下を守る行動は報われているのか。相談制度は本当に労働者を守るために機能しているのか。生産性の圧力から人を守る仕組みはあるのか。PSCは、こうした問いを組織に突きつけます。だから私は、PSCを単なるメンタルヘルスの概念としてではなく、組織の健康診断、さらにはガバナンス指標として見ています
おわりに
職場のいじめやハラスメントは、突然生まれるわけではありません。それは、組織の価値観が積み重なった結果として現れます。人より数字を優先する。部下を守る管理職が評価されない。問題を指摘する人が煙たがられる。相談制度が組織防衛のために使われる。そうした小さなシグナルが積み重なることで、職場の空気はつくられていきます。
魚は頭から腐る。この言葉は厳しいですが、組織を見るうえで非常に重要な視点だと思います。そして同時に、希望もあります。頭から腐るのであれば、頭から変えることもできる。経営層が本気で価値観を変えれば、組織の空気は変わります。組織の空気が変われば、管理職の行動が変わります。管理職の行動が変われば、現場の経験が変わります。
ハラスメント対策は、加害者教育だけでは終わりません。相談窓口を置くだけでも終わりません。本当に必要なのは、組織が何を大切にするのかを問い直すことです。
あなたの会社は、従業員を「成果を出すための道具」として見ているでしょうか。それとも、「守るべき人間」として見ているでしょうか。その答えこそが、組織のPSCを決めているのだと思います。
この記事を書いた人
藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー
「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」
20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。
立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。
最後までお読みいただきありがとうございました。
ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。
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