藤山 晴久 のすべての投稿

藤山 晴久 について

株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締 産業カウンセラー/ ハラスメント研修企画会議 主宰 企業研修プランナー 「ハラスメントの悩みから解放されたい」「自分の指導に自信を持ちたい」「部下との関係性をよくしたい」……といったハラスメントにおびえながら部下指導に悩む管理職にセクハラ、パワハラ研修を企画し、研修をご提供。フツウの研修講師とは異なる「企画営業」という立場で、ハラスメントをなくすためのコツを指導している。

30%×3か月で、責任を取ったことになるのか?

責任って、なんだろう


「都合の悪い話ほど正面から議論し、正しい判断を早く行う」。

浜岡原発の耐震データ不正問題を受け、中部電力の新社長が語った
言葉である。正しい。立派。そして、どこかで聞いたセリフ。

不祥事が起きるたび、経営者は「信頼回復」「再発防止」
「組織風土の改革」を誓う。研修の現場に立つ私は、いつも考える。
その言葉は、実際に何を変えたのだろうか。

中部電力は2023年だけで三度、役員報酬を自主返上している。
カルテル問題で月例報酬の10%を2か月。
顧客情報の不正閲覧で30%を3か月。
そしてカルテル問題で業務改善命令を受け、同じ件で二度目の返上。
社長と会長は30%を2か月。

一方、浜岡原発の問題では、それ以前に内部通報が寄せられていたことも
明らかになっている。報酬を減らし、頭を下げ、再発防止を誓う。
それを一年に三度繰り返す間も、別の重大な問題を知らせる声は、
十分に生かされていなかった。

皮肉と呼ぶには、あまりに重い。

30%×3か月という「責任」

不祥事が起きると、役員報酬の「自主返納」が発表される。
月額報酬の何%を何か月間。
本人が申し出て、将来の報酬を少し減らす。
そのまま続投する場合もある。日本企業では見慣れた光景だ。
2026年11月2日には、GMOインターネットグループも、不正アクセス問題
を受けて代表の月額報酬を30%、3か月減額すると発表した。
不祥事のたびに、判で押したように繰り返される日本の「けじめ」である。

だが、筋が逆ではないか。

役員報酬は、経営を託された職責への対価である。
不祥事によって問われるのは、これから受け取る報酬の額より、
すでに受け取った報酬に見合う責任を果たしていたのか、
ということではないか。

もちろん、不祥事があれば過去の報酬をすべて返せという話ではない。
だが、過去の経営責任が問われているのに、将来の報酬を数か月減らす
だけで、なぜ責任を取ったことになるのか。
過去の報酬の返還を求めるクローバックという仕組みもある。

責任を取るための減俸なのか。
それとも、
職にとどまるための手続きなのか。

減給は、社員の発想


「給料を減らして反省を示す」。
これは、社員が受ける減給処分に近い発想である。

社員は担当する仕事に責任を負う。
経営者は、それに加えて、組織全体の判断と結果に責任を負う。
自分が直接関与していなくても、なぜ不正を防げなかったのかを
問われる立場だ。

その経営者が、社員と同じ作法で反省を示す。
殊勝に見えて、立ち位置を取り違えていないか。

報酬を減らせば反省したことになる。
数か月我慢すれば清算できる。

その発想は、まだ雇われる側のものではないか。
経営を託された者の発想ではない。

自主返納そのものを否定しているのではない。
問題は、自分が不利益を受けることと、
組織に対する責任を果たす
ことを混同してしまう点にある。

魚は頭から腐る

では、なぜ都合の悪い話は組織の中で眠り続けるのか。

例えば経営者が口では「安全第一」と言いながら、会議で厳しく追及
するのは工程と数字ばかりだったら。
悪い知らせを持ってきた人が責められ、問題を表に出さずに済ませた
人が評価される職場だったら。

部下は、何を報告し、何を黙るべきかを学んでいく。
上司の言葉より、何に怒り、何を評価するかを、見ているからだ。

PSC(心理社会的安全風土)という考え方がある。
経営層が働く人の心理的健康と安全をどれだけ重視し、方針や意思決定
に反映しているかを捉える概念だ。
研究では、PSCの低さとハラスメントなどの心理社会的リスクとの
関連が示されている。

もちろん、PSCだけで今回のデータ不正を説明できるわけではない。
しかし、経営の優先順位が現場の行動に影響するという視点は、
不祥事を考えるうえでも重要だ。

魚は頭から腐る。

心理的安全性は、現場で意見を言えるか。
PSCは、その土台となる経営の姿勢や組織の仕組みを見る。

報酬を3割減らしても、経営の優先順位まで変わるとは限らない。
だからこそ、個人の反省ではなく、組織の変化を問う必要がある。

辞めれば、責任を取ったことになるのか

では、辞めればいいのか。それも違う。
今回、中部電力では社長と会長が辞任した。
だが、トップが辞めて幕引き、原因は温存。
そんな光景を私たちは何度見てきただろう。

責任には少なくとも三つある。

何が起きたかを明らかにする責任。
結果に対する責任。
同じ問題を繰り返さない仕組みをつくる責任。

報酬返納も辞任も、二つ目の一部にすぎない。
いちばん重いのは三つ目である。

なぜ不正が起きたのか。なぜ周囲は止められなかったのか。
なぜ問題を知らせる声が是正につながらなかったのか。
その原因が組織の価値観や意思決定にあるなら、
そこを変えなければならない。

責任を取ることと、責任を果たすことは違うと思っている。

責任を取ることは、過去へのけじめ。
責任を果たすことは、未来に向けて組織を変えることだ。

「都合の悪い話ほど正面から」。

その言葉が本物かどうかは、会見の壇上では決まらない。
次に悪い知らせが届いたとき、経営がどんな顔をするか。
その一瞬で決まる。

管理職も、他人事ではない

これは役員だけの話ではない。

部下の不始末を始末書一枚で片づけていないか。
自分のミスを「次から気をつけます」で清算していないか。
部下が悪い知らせを持ってきたとき、どんな顔をしているか。

眉間にしわを寄せる。ため息をつく。
「なんで早く言わなかった」と責める。

そんな上司に、部下は次も悪い知らせを持ってくるだろうか。

研修の現場でも、ハラスメントの行為者を処分し、
研修を実施すれば再発防止になると考える企業は少なくない。
しかし、問題を生んだ職場の空気が変わらなければ、同じ危険は残る。

経営者目線を持てと言われながら、
責任の取り方だけは雇われる側の作法のまま。
自分がどんな処分を受けるかには敏感でも、
自分の言動がどんな組織をつくっているかには、鈍感になっていないか。

減らして、辞めて、それでも返さない。

返していないのは、お金だけではない。
経営を託された者として、果たすべき責任そのものである。

あなたの職場では、悪い知らせを持ってきた部下が、次も安心して悪い知らせを持ってこられるだろうか。

出典
中部電力HP「役員報酬の自主返上」(2023年4月7日)ほか

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、

ハラスメントの背景や構造について考えています。

職場には、「わかっているはず」という思い込みや、

言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。

しかし、ときにそれは人を追い詰める

「以心伝心の暴力」 になることもあります。

このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、

よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。

職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。

そんな思いで、このブログを書いています。

松井秀喜にあって、パワハラ上司にないもの

「お前、何やってるんだ」。

ハラスメント研修の現場で、繰り返し耳にする言葉である。
言った本人は指導のつもり。
言われた側には、叱責や人格否定として残ることがある。

2026年10月30日、巨人の松井秀喜新監督は、秋季キャンプの初訓示で、
これによく似た言葉を口にした。
「俺、今なにやってるの?」。ただし、主語が違う。
「お前」ではなく「俺」。他人に向ければ叱責、自分に向ければ内省。
言葉の中身ではない。矢印の向きである。

指導とは、相手を問い詰めることではない。
相手が自分に問いかける力を育てることである。パワハラを恐れて指導に
戸惑う管理職にこそ、考えてほしい問いだ。

「頑張れ」ではなく「出し切れ」


松井監督は「100%出し切る意識」を求めた。
注目したいのは「出し切る」という動詞である。
職場は「120%の力を出せ」が好きだ。だが、問題は100か120かではない。
基準がどこにあるかである。上司の期待か。本人が動かせる行動か。
上司の期待を基準にすれば、要求に際限はない。
100%でさえ、使い方を誤れば過剰な要求になる。

一方、松井監督が求めたのは、「自分でコントロールできること」に
出し切ることだった。
試合には相手がいる。結果は思い通りにならない。
だが、目の前の練習にどう向き合うかは自分で決められる。
今ある力を、出し惜しみしない。自分で変えられる行動に目を向けている。
結果を責めても人は育たない。求めるべきは、本人が変えられる行動の質である。

出し切ったら、寝ろ

ここで終わらないのが、松井監督の訓示である。
「睡眠しっかりとる、それもトレーニング」。
出し切るとは、空になること。空になったら、満たす。
努力と回復は対立しない。一つのセットである。

多くの職場は、この後半を忘れる。
「もっと頑張れ」とは言う。「しっかり休め」とは言わない。
それは育成ではない。消耗である。
努力を求めるなら、努力を支える環境を整える責任は、上司と組織の側にある。

「24時間平等」と言える上司の条件

「みんな平等に24時間ある」。よく聞く言葉だ。
だが、この言葉を口にするには条件がある。
部下の24時間を、上司が奪っていないこと。
終業後のチャット。休日の「ちょっといい?」。終わりの見えない会議。
部下の時間を食い潰しておいて「時間は平等だ」と言うのは、矛盾ではないか。

松井監督は、成長を支えるスタッフも施設も揃っていると伝え、その活用を促した。
努力を個人任せにするのではなく、成長を支える環境にも目を向けている。
私はそこに、この言葉の説得力を感じた。

成果の「期限」より、成長の「過程」

松井監督は、成果が「いつ、どのくらい、どうやって」出るかはわからない
とも語った。
企業に期限は必要である。だが、人の成長は計画どおりには進まない。
すぐ伸びる人もいれば、時間をかけて化ける人もいる。
問われるのは、期限を切ることではない。
その間、過程を見ているかどうかである。出ない成果を責め続けるのか。
何ができるようになったかを一緒に確かめるのか。
その差は、やがて部下の伸び方の差になる。

「寝てるとは何事だ」と言わなかった監督

訓示の途中、松井監督は「睡眠しっかりとる、それもトレーニング」と語り、
若手の西舘投手に「なあ、西舘、そうだよね」と話を振った。

伏線がある。訓示の6日前、松井監督がジャイアンツ球場を訪れた日。
西舘投手はトレーナー室で爆睡していた。新監督が隣を通っても起きない。
球団公式YouTubeが配信したその映像は、2日間で300万回再生を超え、
韓国の新聞にまで載ったという。

もし、これが職場だったらどうか。
「上司が来ているのに寝ているとは何事だ」。
そう叱る人もいるだろう。
だが、松井監督の第一声は「いいね!熟睡して羨ましい」だった。
叱らない。それどころか、羨ましがる。
トレーナー室は休むための部屋である。
少なくとも松井監督は、休んでいる選手を頭ごなしに責めなかった。

そして6日後、全選手の前で「睡眠もトレーニング」と語り、西舘投手に話を振る。
名指しはした。だが、責める言葉は一つもなかった。
私はこれを、選手を責めることなく、チーム全体に休息の大切さを伝える言葉
として受け取った。
「やらかし」が、チームへのメッセージに変わった瞬間である。

ただし、断っておきたい。職場の「いじり」は、ハラスメントでは
要注意の言葉である。
現に西舘投手自身、「悪い時に『また寝てんのか』と言われそう」と語っている。
調子のいい時は笑い話。調子が落ちた途端、同じネタが責める材料に変わる。

「仲がいいから大丈夫」。
研修の現場で、いじりの言い訳として何度も聞いてきた言葉である。
だが、親しい間柄でも、相手が嫌がっていることに気づかないまま繰り返すことは
ある。周囲が笑っていても、本人だけは笑っていないこともある。
笑いになるか、相手を傷つけるか。
その違いを、関係性だけで判断してはならない。
相手がどう受け止めているか。その後どう関わっているか。
言葉の内容や、その場の状況も含めて考える必要がある。

長い言葉は、いらない

映像で最も心に残ったのは、訓示の後の場面である。
松井監督は選手一人ひとりと握手を交わし、短い言葉をかけていた。
ほんの一言、二言。それでも、声をかけられた選手の顔から緊張がほどけ、
嬉しそうな笑顔がこぼれる。

もちろん、相手があの松井秀喜だからこその反応もあるだろう。
だが、本質はそこではない。
人を勇気づけるのに、長い説教はいらない。
一人ひとりをよく見て、その人に届く一言を選ぶ。
リーダーの仕事はそれだけではない。
だが、こうした一言の積み重ねが、人と人との信頼関係をつくっていくのでは
ないだろうか。

ハラスメントは「土壌」から断て

今回の訓示で最も重要なのは、実は個々の選手への接し方ではない。
松井監督が繰り返した「文化」という言葉である。
人は入れ替わっても、積み上げた文化は残る。
そして「君たちがその文化を作っていってください」。

ハラスメントは、問題のある上司一人から生まれるとは限らない。
結果さえ出せば何をしてもいいという価値観。
追い詰める指導を黙認する空気。
人の成長より目先の数字を優先する風土。
それが土壌になる。
問題上司を一人処分しても、土壌が同じなら、次の加害者が育つだけである。

ハラスメントが起きたとき、事実を確かめ、被害者に配慮し、
行為者に適切に対応する。それは当然必要である。
だが、それだけでは足りない。
そもそもハラスメントが生まれにくい文化をつくること。
それこそが、ハラスメントを根本から防ぐために欠かせない取り組みである。
選手一人ひとりの成長を語りながら、組織の文化へと話をつなげた
松井監督の訓示は、その見本だった。

パワハラを恐れて指導できない上司へ

パワハラを防ぐために、指導をやめる必要はない。
必要なのは、指導を弱くすることではなく、質を高めることである。
責めるのではなく、考えさせる。
結果だけでなく、過程を見る。努力を求めるなら、努力できる環境を整える。

「お前、何やってるんだ」。そう言いそうになったら、まず自分に問えばいい。

「俺、今なにやってるの?」

出典・参考資料

日刊スポーツ(2026年10月30日)「【巨人】松井監督『過去の栄光で輝いている旗じゃかわいそう』6分13秒の初訓示/全文」
日刊スポーツ 巨人担当 公式X(@nikkan_giants)「松井秀喜新監督の訓示、全文」
THE ANSWER(2026年10月25日)「松井監督に全く気づかずドラ1“爆睡”『あかん…やった』 本人正座の舞台裏『起きた時には…』」
デイリースポーツ(2026年10月28日)「巨人・西舘 松井新監督の前で爆睡動画が300万回再生の大ヒット『来年はちゃんと野球で目立てるように』」
※松井監督の発言は、日刊スポーツが掲載した訓示全文から一部を引用しています。西舘投手に関する記述はTHE ANSWERおよびデイリースポーツの記事に基づきます。選手への声かけに関する描写は、筆者が視聴した映像に基づくものです。本文の解釈・考察は筆者によるものです。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、

ハラスメントの背景や構造について考えています。

職場には、「わかっているはず」という思い込みや、

言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。

しかし、ときにそれは人を追い詰める

「以心伝心の暴力」 になることもあります。

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職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。

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パワハラ上司は、AIにも怒鳴っている-AIへの暴言は、あなたの本性を映す

反論しない相手にこそ、人は本性を見せる

AIへの暴言。笑い話のようで、実は笑えない話である。

Yahoo!ニュースに2026年 10月25日配信された
ABEMA TIMES編集部の記事(『ABEMA Prime』より)。Anthropicが利用規約を改定し、AIへの悪質な暴言が続く場合には会話を終了させる方針を打ち出した。これを受けてイーロン・マスク氏は「超知能を虐待するのはいい考えではない」と反応したという。復讐されるかもしれない、と。

記事に登場するコラムニストは、質問と違う答えを返し続けるAIに苛立ち、
思わず「このポンコツ」と打ち込んだ経験を語っている。
別の論者は、ハルシネーションが出るたびに罵倒の言葉が口をつくと率直に認めた。

正直な告白。そして、ここにすべてが詰まっている。

人は、反論しない相手、傷つかないと思える相手、立場が下の相手にこそ本性を
見せる。AIはその究極の存在。
言い返さない。辞めない。人事に訴えない。
だからこそ、AIへの言葉遣いは、その人の「素」が最も露骨に出る場所ではないか。

パワハラは「反撃されない」という確信から始まる

研修の現場で、私は何百回となく同じ構造を見てきた。

パワハラの本質は、怒りの強さではない。
「この相手には何を言っても大丈夫だ」という確信。
部長も課長も社長には怒鳴らない。怒鳴るのは、反撃してこない部下に対してだけ。
つまりパワハラとは感情の暴走ではない。
相手を選んだ上での、計算された行為である。

AIに「嘘つき」と打ち込む人は、AIに感情がないから構わないと言う。
だが問題はAIの側にはない。
「反撃されない相手には何を言ってもよい」という回路を、
自分の中で毎日鍛えていること。そこに問題がある。

記事の中で当事者自身が気づいている。
AIとの楽なやり取りに慣れると、人間関係が面倒になっていく、と。
まさにその通り。
気を遣わなくてよい相手との会話は、気を遣うべき相手への耐性を
確実に削っていく。言葉の筋肉は、使い方ひとつで劣化するもの。

投影 -世界は自分の影でできている

「人を見たら泥棒と思え」という言葉がある。

だが、人を泥棒と見る人の世界には、泥棒しかいない。
疑いの目で見れば相手は疑わしく見え、敵意を向ければ相手は敵に見える。
心理学でいう投影。
自分の内側にあるものを、相手に映し出してしまう心の働きである。

AIを「ポンコツ」と罵る人は、実はAIを見ていない。
自分の苛立ち、自分の焦り、思い通りにならない現実への怒り。
それを画面の向こうに投げつけているだけではないか。

記事の中で哲学研究者の森脇透青氏は、人格とは人間がAIに見出しているものであり、結局は人間社会の問題だと指摘する。
私も同意する。
AIへの暴言はAI問題ではない。人間の問題。
もっと言えば、自分の問題である。

自分の意識が作っている問題は、自分の意識を変えることでしか解決しない。
逆に言えば、変えれば解決する。ここに希望がある。

PSC -魚は頭から腐る

私が研修で繰り返し紹介している概念に、PSC(Psychosocial Safety Climate:心理社会的安全風土)がある。
組織のトップが働く人の心の健康をどれだけ本気で優先しているか。
その「風土」がハラスメントや職場の荒れを左右するという研究である。

教訓は明快。魚は頭から腐る。

トップや管理職が日常で使う言葉。
誰も見ていない場面での振る舞い。
それが組織の空気を作り、やがて組織全体の言葉遣いになる。
部下は上司の言葉を「学習」するのである。

同じ記事でシナモンAI代表の平野未来氏は、人間の嫌味や暴言がAIの学習データ
となり、AIがそれを「良い振る舞い」と学んでしまう危険を指摘していた。

これ、組織とまったく同じ構造ではないか。

罵倒する上司の下では、罵倒を学んだ部下が育つ。
その部下がやがて上司になり、次の世代を罵倒する。
ハラスメントの連鎖とは、要するに学習の連鎖。
AIが人間から暴言を学ぶ未来を恐れる前に、自分の部下に何を学ばせているのか
を問うべきだろう。

AIが私たちに問うていること

AIが人間に復讐する。AIが人間にパワハラを仕掛けてくる。
そんな未来を本気で心配する声もある。

だが私は、もっと身近で、もっと怖い未来を想像する。

AIとの何気ないやり取りの中に、その人の世界の見方、他者への姿勢、
人柄そのものが残らず映し出される時代。
誰も見ていないはずの画面の前で、あなたはどんな言葉を選んでいるか。
それは会議室で部下に向けている言葉と、本当に違うだろうか。

AIは鏡。しかも、ごまかしの効かない鏡。

映っているのはAIの欠陥ではない。私たち自身の姿である。

今回の騒動から学ぶべきは、「AIに優しくしよう」という道徳ではない。
反論しない相手にどう振る舞うか。
そこにこそ人間の品格が問われるという、きわめて古くて新しい真実。

AIが問うているのは、AIの未来ではない。

私たちの在り方そのものではないか。

【出典】
「『AIを虐待すると復讐されるかも』マスク氏も警告…アンソロピックが“AIいじめ”対策でポリシー改定 識者が危惧するAIへの暴言のリスク」
ABEMA TIMES編集部(『ABEMA Prime』より)
Yahoo!ニュース、2026年10月25日(日)11:00配信

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、

ハラスメントの背景や構造について考えています。

職場には、「わかっているはず」という思い込みや、

言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。

しかし、ときにそれは人を追い詰める

「以心伝心の暴力」 になることもあります。

このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、

よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。

職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。

そんな思いで、このブログを書いています。

ヤンキーの恋愛番組に、パワハラ上司の正体を見た

それぞれに、過去がある。
後悔がある。傷がある。
そんな男女が沖縄に集まり、14日間を共にする。
Netflixの恋愛リアリティシリーズ『ラヴ上等』シーズン2である。
番組そのものも面白かったのだが、私がさらに興味を引かれたのは、
その後にYouTubeで観た一本の解説動画だった。

犯罪心理学者の出口保行さんと婚活アドバイザーの植草美幸さんが、
『ラヴ上等』シーズン2で起きた出来事を、それぞれの専門家の視点から
読み解いていた。
それを観ていて、私は思った。

ここで語られている人間の心理は、パワハラが生まれる職場のメカニズムと、
驚くほどよく似ている。

「ナメられたら終わり」という世界観

ヤンキーの世界では、「メンツ」が重要になる。
ナメられたくない。引いたら負け。
だから、些細な一言に火がつくことがある。
言葉の中身だけではない。
「誰が、誰に、どの場で言ったか」に反応する。

これ、どこかで見た光景ではないか。

会議で部下が、上司の案に異を唱える。
内容はまっとう。むしろ正しい。
それでも上司は顔色を変える。
「お前、誰に向かって言ってるんだ」
怒っているのは、意見の中身にではない。
部下に意見されたという「構図」にである。
服装が変わり、職場という場所に移っても、同じようなことは起こる。

「総長」という立場が、例えば「部長」に変わっただけで、
上下関係へのこだわりが残っていることはないだろうか。

怒りの奥にあるもの

パワハラ行為者と面談すると、こんな言葉を耳にすることがある。
「ナメられたら、組織は回らない」
一見、勇ましい言葉である。
だが、その奥には別の感情が隠れていることもある。

ナメられることへの恐れである。
立場を失う恐れ。
能力を見透かされる恐れ。
若手に追い抜かれる恐れ。
そうした不安が、威圧という形で現れることがある。

だから私は研修で、怒りそのものだけを見るのではなく、
その手前を考えてもらう。
「あなたは、そのとき何を守ろうとしたのか」
ここに目を向けると、怒りの景色が変わってくる。

過去の人間関係は、その後にも持ち込まれる

YouTubeの解説で、もう一つ印象に残った話がある。
DV被害の経験が、その後の恋愛に与える影響についてである。
DVの被害を受けることで自尊心が低下し、何か問題が起きたときに
「自分が悪い」と考えやすくなる。
そして、相手の機嫌を損ねないように振る舞うことがある、という話だった。

出口さんは、これまで多くの非行少年や犯罪者を分析してきた経験から、
家庭の問題の影響についても語っていた。
もちろん、家庭環境や過去の傷があるから、将来パワハラをするという
話ではない。
私が興味を持ったのは、もっと別のところである。

人は、過去の人間関係の中で身につけた「生き方」を、その後の人間関係
にも持ち込むことがある。

これは職場でも同じではないだろうか。
特に、昭和の薫陶を受けてきた世代には、どこか見覚えがないだろうか。

「上司の言うことは絶対」
「口答えするな」
「若いうちは黙って言われたことをやれ」
「仕事は見て盗め」
「怒られて一人前になる」
自分もそうやって育てられた。
そして、それで仕事を覚え、管理職になった。

だから今度は、自分が部下に同じことをする。
「俺たちの頃は、もっと厳しかった」
「これくらいでへこたれてどうする」
本人にとって、それは必ずしも「攻撃」ではない。
むしろ、自分を成長させてくれた「正しい指導」だと思っていることさえある。

ここに、パワハラ防止の難しさがある。

過去に適応するために身につけた価値観が、立場と時代が変わったとき、
今度は誰かを追い詰めるものになることがある。

だから、「パワハラをしてはいけません」と教えるだけでは変わらない。

「あなたは、どんな上司のもとで働いてきたのか」
「そこで、何を当たり前だと学んだのか」
「その当たり前は、今の部下にも本当に必要なのか」

そこまで振り返る必要があるのだと思う。

沈黙は、同意ではない

そして、この構造にはもう一方の側がある。
強い叱責を受け続ければ、部下の側も学習する。

意見すれば不機嫌になる。
反論すれば、さらに叱られる。
人前で否定される。

だったら、何も言わないほうがいい。
口を開くたびに損をする、と。
そして職場から異論が消えていく。
上司は誤解する。
「うちのチームはうまくいっている。誰も文句を言わない」
しかし、沈黙は同意とは限らない。
言いたいことがないのではなく、言っても無駄だと学習した結果かもしれない。

「これくらいなら」が、境界線をずらしていく

そしてYouTubeの解説で、私が最も興味を引かれたのが「モラルスリップ」
という話だった。
番組では、お酒を飲んではいけないルールの場面で、
「ちょっとくらいなら」
「これくらいならわからないだろう」
とルールを破ってしまう場面が取り上げられていた。

小さな逸脱が許される。
何も起こらない。
すると、次はもう少し先まで行く。

このメカニズムを見た瞬間、私はパワハラと同じだと思った。
「これくらい叱っても大丈夫だろう」
「この程度なら指導の範囲だろう」
「自分も昔、同じように指導された」

最初は、少しきつい口調。
次は、皆の前での叱責。
さらに、人格に踏み込むような一言。
少しずつ境界線がずれていく。

これは、ハラスメントだけの話ではない。
例えば、会社のお金に手をつける不正もそうかもしれない。
「この程度ならバレないだろう」
「あとで戻せばいい」
「今回だけなら」
行為の種類はまったく違う。
しかし、メカニズムを見るとよく似ている。
「これくらいなら大丈夫」という小さな自己正当化が、
次の「これくらい」を生んでいく。
だから私は、重大なハラスメントだけを見ていてはいけないと思う。
その前に、必ず小さな境界線のズレが起きていないだろうか。

裁かれるべきは、本人だけか

ここで、人事・コンプライアンス部門に問いたい。
事案が起きる。
行為者を処分する。
研修を受けさせる。
それで、再発防止になったと言えるのか。
なぜ、誰も止めなかったのか。
なぜ、上司の上司は気づかなかったのか。
なぜ、「数字を出しているから」で済まされてきたのか。
成果を上げる管理職の暴言を、組織が黙認する。

これは黙認ではない。承認である。

「その程度なら構わない」という、組織からのお墨付きになるからだ。
問われているのは、組織が「人」と「数字」のどちらを優先しているかである。

「多少問題があっても、数字を出しているから」

この一言を組織が許した瞬間、管理職は学習する。
結果さえ出せば、このやり方は許される、と。
問題の管理職だけを切り離して処分しても、土壌が残れば、
別の誰かが同じことを始める。

行為者だけの問題に見えて、実は、その行動を許してきた
組織の問題でもある。

不良たちは、正直である

『ラヴ上等』の参加者たちは、感情をむき出しにする。
ぶつかり、怒り、ときには泣く。
見方によっては、誠実ですらある。
職場のハラスメントは違う。
スーツを着て、敬語の衣をまとい、「指導」という
名札をつけてやってくる。

だから見えにくい。だから厄介なのである。
人を見るだけでは足りない。

その人が、どんな価値観を身につけてきたのかを見る。

その人を許してきた職場を見る。

その職場をつくった組織を見る。
「あの人は、ああいう人だから」
「昔から厳しい人だから」
「数字を出しているから」

そう言って目を逸らした瞬間、組織は次の「これくらいなら」を
許すことになる。

あなたの職場では、その小さな違和感に誰が気づき、誰が声を上げ、
誰が止めることになっているだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、 
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

「懐かしがっている場合ではない」-映画『ファーストボイス 前代未聞の逆転裁判』 最後の一文に突きつけられたもの

映画『ファーストボイス 』を観た。

映画の感想は、ほかの人に任せる。私は、映画の中身は語らない。
語りたいのは、エンドロール直前のたった一文だけだ。
描かれるのは1989年。

会社の中のセクハラと、それを当たり前とする男たちの意識。
この時代の裁判を、私はこれまで文章でしか知らなかった。
それが初めて立体になった。物語はフィクションだが、現実とほぼ重なる。
映画として、面白かった。

面白かった。だから油断した

最後に、スクリーンに一文が浮かんだ。
今も、セクハラは止まっていない。

正確な文言は覚えていない。だが、そういう趣旨だった。
それで十分だった。

一気に現実に引き戻された。37年前と変わらない。その事実を、
真正面から突きつけられたのである。

誰も振り返らない一文

観終わってから、ネットの感想を読み漁った。
ボディコンスーツが懐かしい。法廷シーンがスカッとした。
主演がよかった。
あの一文に触れた感想は、ほとんど見当たらなかった。

驚いた。だが、すぐに腑に落ちた。多くの人にとって、
これは「昔の話」なのだ。最後の一文が「今の話だ」と
告げているのに、誰も振り返らない。

素通りされる一文。
それこそが、37年変わらなかった理由ではないか。

失われた30年ではない、止まったままの37年

この映画を観に行く人に、セクハラ行為者はいないと信じたい。
おそらく、いない。問題は、観に行かない人だ。

講師として断言する。
ここ数年、セクハラ研修の依頼はむしろ増えている。
ゼロになる気配はない。
求職者へのセクハラ、いわゆる就活セクハラは、ついに法律で
防止措置が義務づけられる時代になった。
法律が要るほど、止まっていないということだ。

相談の中身も変わらない。
相変わらずのボディタッチ。休憩中にスマホでアダルト動画を見る社員。
男性同士のセクハラ。社内でのストーカーまがいの行為。体型容姿いじり。
挙げればきりがない。
大きく報じられることは少くない。
だが、苦しんでいる人は確かにいる。

自社を志望してくれた学生を、傷つける大人

特に伝えたいのは、休職者等に対するセクシャルハラスメント
(旧:就活セクハラ)だ。

自社を志望してくれた学生に、セクハラをする。その結果、
入院した学生がいる。メンタルクリニックに通い、薬を飲み続けている
学生がいる。
厚生労働省の調査にも、その実態ははっきりと表れている。
会社の看板を背負った採用の場で、未来の仲間を陥れる大人がいる。
これが、今この国で起きている事実である。

エンドロールは、宿題だった

「昔はひどかったね」と笑える日は、まだ来ていない。

懐かしがっている場合ではない。エンドロール前のあの一文は、
過去の物語の締めくくりではなかった。
今を生きる私たちへの宿題だったのではないか。

制度でもない。マニュアルでもない。
未来を担う若い人を、どうか大事にできる大人を育ててほしい。

エンドロールが終わっても、あの一文だけは消えなかった。

宿題は、まだ終わっていない。
だから、私は、明日も研修の場に立つ。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

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ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

考えてはいけないことを、考えてみた。


『考えてはいけないことリスト』というタイトルに、つい手が伸びた。
著者は言語学者・堀田秀吾氏。

世界中の学術論文をもとに、「私たちが考えないほうがよいこと」を紹介した
一冊である。
読み進めていると、なぜか職場のことが次々と頭に浮かんできた。
特に目に留まったのが、「空気」「世間体」「みんなと同じ」という三つの言葉。

企業研修の現場でよく耳にする、

「若手社員から新しい提案が出てこない」
「最近の若い人は挑戦しなくなった」

という嘆きとも、驚くほど地続きだった。

「空気を壊したかも」という思い込み

「空気を読む」ことを、日本人はことのほか重んじる。
会議でも雑談でも、

「今、これを言うべきか」
「変に思われないか」
「みんなと違うことを言って大丈夫か」

そう周囲を窺いながら話す人は少なくない。
だが堀田氏によれば、「空気」の正体とは、
その場にいる人たちが無意識に
共有する前提や共通認識だという。

そして、その前提は人によって違う。
最初から全員が同じ空気を共有しているわけではないのだ。
会話とは、違いをすり合わせながら共通理解をつくっていく作業。
だとすれば、「空気を読む」という言葉自体が、
少し誤解を生みやすいのかもしれない。

空気は、読むものではない。つくるものである。

「そんなことを言ったら空気が悪くなる」
「今さら反対意見は言いづらい」
職場でよく聞く言葉である。
しかし、異論が出るからこそ議論は生まれ、結論は磨かれる。
空気を壊すことを恐れるあまり、誰も本音を言わなくなる組織。
私は、そちらのほうがよほど深刻な問題だと思う。

「世間体」という見えない圧力

もう一つが、「世間体が悪いのではないか」という発想である。
空気と世間体は似ている。
空気が職場など比較的小さな集団の中で働く圧力だとすれば、
世間体は、より広い社会から自分がどう見られているかを意識することだろう。

「失敗したら恥ずかしい」
「変な人だと思われたくない」
「周囲から浮きたくない」

こうした感情は、私たちの行動を静かに縛る。

しかも今はSNSがある。
見知らぬ誰かの批判まで目に入ってくる時代である。

「目立たないほうがいい」
「余計なことは言わないでおこう」
「黙っているほうが安全だ」

そう考える人が増えても不思議ではない。
問題は、その感覚が職場にも持ち込まれたときである。
誰も反対意見を言わない。
誰も新しい提案をしない。
誰も挑戦しない。
そんな組織が、少しずつ出来上がっていく。

「みんなと同じ」は、本当に正解か

堀田氏は、「みんなと同じでいたい」という心理にも触れている。

集団に受け入れられたいという欲求そのものは自然だ。
問題は、それが行き過ぎたときである。

「普通はこうだ」
「みんなそうしている」
「そんなことをする人はいない」

こうした言葉が増えるほど、異質なものへの許容度は下がっていく。
私はハラスメントを考えるとき、この「普通」という一語を警戒している。

ハラスメントは、行為者個人の性格だけから生まれるものではないからだ。
「これくらい普通だ」
「昔からこうやってきた」
「みんな我慢している」

そんな空気が、問題のある言動を静かに許容してしまうことがある。
歴史の長い企業を訪ねると、そこには長年積み重ねられてきた独自の文化がある。
文化そのものが悪いわけではない。むしろ企業の強みになっている場合も多い。

しかし、その文化が固定化されたとき、「違う考え」の入り込む余地がなくなっていく。
会議で誰も異論を言わない。
新しい提案が出てこない。
これまでのやり方を変えようとする人がいない。
そんな組織を、私は研修の現場で何度も見てきた。

「若手が挑戦しなくなった」のか、それとも

「若い人たちが挑戦しなくなった」
「前提をくつがえすような提案が出てこない」
管理職からこの手の相談を受けるたび、私は一度立ち止まる。
それは本当に、若手社員だけの問題なのか。
以前、ある方からこんな話を聞いた。
回転寿司でマグロに七味唐辛子をかけて食べていたところ、周囲から、
「え、それはおかしい」
「普通はそんな食べ方しない」
と言われたという。
本人はその場では聞き流した。
だが後になって、
「自分を否定されたような気持ちになった」
と話していた。
もちろん、マグロに七味をかけるかどうかなど、たいした話ではない。
かけてもいいし、かけなくてもいい。本人が好きなように食べれば
いいだけのことである。

私が気になったのは、そこではない。
そんな小さな違いに対してさえ、「おかしい」「普通はそうしない」
という言葉が出てくることだ。
言った側に悪気はなかっただろう。ただの雑談だったに違いない。
しかし、「おかしい」「普通はこうする」という言葉には、思っている
以上の力がある。
それが日常の中で繰り返されれば、
「自分の感覚は、この職場では受け入れられない」
「みんなと違うことは言わないほうがいい」
と感じるようになるかもしれない。
若手から新しい提案が出てこない理由の一端は、こうしたところにも
あるのではないか。
日常では「普通はこうだ」と違いを否定しておきながら、
会議になった途端、

「若手らしい自由な発想を出してほしい」
「前例にとらわれない提案がほしい」
と求める。

少し虫のいい話ではないか。
人は、会議室に入った瞬間だけ自由に発言できるようになるわけではない。
日常の何気ない会話の積み重ねこそが、
「ここでは違うことを言っても大丈夫だ」
という感覚を育てていく。

失敗を責める組織に、挑戦は生まれない

「失敗したら人生が終わる」という考えも、本書では手放したほうが
よいものとして紹介されている。

たしかに現代社会には、失敗に厳しい面がある。
SNSでは失敗が拡散され、職場でもミスを厳しく責められることがある。
しかし、一つの失敗は一つの出来事であって、人生そのものではない。
むしろ失敗から学べることも多い。

これは組織にも当てはまる。
失敗した人を責める組織では、人は「失敗しない方法」を考え始める。

挑戦しない。
余計な提案をしない。
これまで通りにやる。
そのほうが安全だからだ。

「みんなと違うことをするな」という空気と、「失敗するな」という空気。
一見、別のものに見える。
しかし私は、根っこは同じではないかと思っている。

決められた枠から外れることを、どこまで組織が許容できるか。
それが問われているのではないだろうか。

「若手の問題」の前に、組織の空気を見る

堀田氏は自分軸を保つ方法として、他人ではなく過去の自分と比較することや、
「わからないものはわからない」と認めることを挙げている。
特に後者は、職場でも重要だと思う。
「上司はきっとこう思っている」
「みんな私を評価していない」
「こんなことを言ったら嫌われるかもしれない」
わからないはずの他人の気持ちを想像し、その想像によって自分の行動を
止めてしまう。

ただ、私はそれを単なる「本人の思い込み」で片づけたくない。
「そんなことを言ったら怒られる」
「失敗したら責められる」
「変な提案をしたら笑われる」
そう思わせる何かが、職場の日常に潜んでいないだろうか。
上司の表情。
誰かが否定されたときの会議の空気。
失敗した人への接し方。
「普通はこうだ」という何気ない一言。
そうした小さな出来事の積み重ねが、組織の空気をつくっていく。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である

私は、ハラスメントを考えるとき、行為者だけを見ていては不十分だと考えている。
その人の価値観や思い込みを見る。
上司と部下の関係を見る。
周囲の沈黙や傍観を見る。
そして、その背後にある組織文化を見る。
「若手が意見を言わない」という現象も、構造は同じではないだろうか。
若手の主体性だけを問題にするのではなく、
この組織は、本当に違う意見を歓迎してきたのか。
と問い直してみる。

「挑戦してほしい」と言いながら、失敗した人を責めていないか。
「自由に意見を言ってほしい」と言いながら、上司と違う意見を言った人
を面倒な人として扱っていないか。
「若手ならではの発想がほしい」と言いながら、日常では「普通はこうだ」
と違いを否定していないか。

自分と違う考えや行動を見たとき、
「それはおかしい」
「普通はそんなことをしない」
とすぐに判断するのではなく、
「そういう考え方もあるのか」
「それはおもしろい」
と、まず受け止めてみる。

そんな日常の小さな反応の積み重ねが、
「ここでは自分の意見を言っても大丈夫だ」
という感覚につながっていくのだと思う。
違いを認め合える職場をつくること。

それはハラスメントを防ぐことだけではない。
新しい意見や挑戦が生まれる組織をつくることにもつながっている。
『考えてはいけないことリスト』を読みながら、そんなことを考えた。
マグロに七味をかけるかどうかは、どうでもいい。
しかし、そんな小さな「違い」を、私たちが日常の中でどう扱って
いるかは、どうでもよくない。

「おかしい」
「普通はそうしない」
「みんなこうしている」

そんな何気ない言葉の積み重ねが、いつの間にか、
「違うことを言わないほうがいい」
という空気をつくっているかもしれないからだ。
もし今、あなたの職場で、
「若手から新しい提案が出てこない」
と感じているとしたら。
「なぜ若手は提案しないのか」と考える前に、もう一つ、
考えてみてもいいのかもしれない。

私たちの職場は、「普通」から外れても大丈夫だと思える
場所になっているだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。
このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

「どう思ってる?」が部下を追い詰める。感情を出せない職場で、人は言葉を失っていく

「どう思ってるの?」
「何が問題なの?」
「ちゃんと言ってくれないと、わからないよ」

職場でよく交わされる問いです。
悪気はありません。むしろ、「本音を引き出そう」「部下の話を聞こう」という
善意からの問いかもしれません。
でも、その善意が、かえって人を追い詰めてしまうことがあります。

先日、NHK Eテレ『toi-toi』を見ました。
テーマは「自分の気持ち わかりますか?」。

親との死別、家庭環境、人間関係、孤独。それぞれの事情を抱えた若者たちが、
自分の感情について語っていました。

その場で気持ちのやりとりを求められても、すぐには自分の気持ちを形にできない。
ある出演者の話を聞きながら、私は思いました。
これは職場でも起きているのではないか。

「どう思ってる?」が“圧”になる

気持ちを言葉にできない。だから、沈黙する。
すると上司は、

「考えていないの?」
「何か不満があるの?」
「不機嫌なの?」
と受け取ってしまう。

さらに、
「言ってくれないと、こっちもわからないよ」
と問いかける。

でも、本当に「言いたくない」のでしょうか。
もしかすると、本人にもまだわかっていないのかもしれません。
悲しいのか。悔しいのか。腹が立っているのか。不安なのか。
それとも、いくつもの感情が混ざり合っているのか。

自分でも整理できていない状態で、「で、どう思ってるの?」
と答えを求められる。
すると人は、とりあえずその場に合う「答え」をつくってしまうことがあります。
本音というより、その場を乗り切るための「正解らしきもの」です。

「大丈夫です」は、本当に大丈夫なのか

番組では、入院中の経験を語った出演者がいました。

周りを悲しませたくない。つらくても明るく振る舞う。
それを続けているうちに、自分の感情さえわからなくなっていった。
悲しいのか、うれしいのか、それさえわからない。

職場でも、似たことが起きているのではないでしょうか。

本当は困っている。仕事を抱え込んでいる。上司との関係に悩んでいる。
それでも、
「何か困っていることはない?」
と聞かれると、

「大丈夫です」

と答えてしまう。

迷惑をかけたくない。弱いと思われたくない。空気を悪くしたくない。
そうやって周囲に合わせ続けているうちに、自分でも自分の感情が
わからなくなることがあります。

だから、「大丈夫です」という言葉だけで、
「大丈夫なんだ」と判断してしまうことには、少し慎重であったほうが
いいと思います。
言葉になっていないものが、その後ろに隠れているかもしれないからです。

言葉にできない感情がある

自分の感情を言葉にすることは、簡単な作業ではありません。
番組では、臨床心理士の倉西ひろしさんが「感情を選べない」という
印象的な話をしていました。

たとえば、レストランでメニューを渡されても選べない人がいる。
「これが食べたい」というものがなく、「どれも違う」と感じる。

感情も同じだというのです。

悲しい。悔しい。寂しい。腹が立つ。
言葉はいくつもあります。

でも、今の自分の気持ちは、そのどれにも当てはまらないことがある。

また、俳人の夏井いつきさんの言葉も印象に残りました。

「人のこと以上に、自分のことはわからない。
言葉はそもそも不自由なもので、自分の心を100%言葉にすることなどできない。」

人の感情は、それほど単純ではありません。
にもかかわらず、職場では、

「結局、どう思ってるの?」
「結論は?」

と即答を求めてしまう。

それでは、話せない人がますます話せなくなっても不思議ではありません。
「沈黙を待ってくれると救われる」では、上司はどうすればいいのでしょうか。

「沈黙も含めて待ってくれると救われる」

番組で印象に残った一言でした。

多くの上司は、沈黙が苦手です。
部下が黙ると、「何か言わなければ」「質問を変えなければ」「アドバイスしなければ」と焦ってしまう。
早く結論を出そうとすることもあります。
でも、感情には、すぐに言葉になるものと、時間をかけなければ言葉にならないものがあります。
上司に必要なのは、沈黙を埋めることではなく、沈黙を待つことなのかもしれません。

「今、わからなくても大丈夫だよ」
「うまく言葉にしなくてもいいよ」

その一言だけで、安心して自分の感情と向き合える人もいるのではないでしょうか。

励ましや解決策が、逆効果になることもある

もう一つ大切なのは、ようやく言葉にした感情を「ジャッジしない」ことです。

励ますつもりで、
「そんなことで落ち込むなよ」
「気にしすぎだよ」
「もっと前向きに考えよう」

と言うことがあります。

言った本人は励ましているつもりです。

でも、受け取る側には、
「そんなふうに感じてはいけない」
と、自分の感情を否定されたように伝わることがあります。
すぐに解決策を差し出すことも、いつも正解とは限りません。

「転んで膝をすりむいて、痛かった」
と言う相手に、
「薬を塗れば治るよ」
と返す。
間違ってはいません。

でも、その人がその瞬間に求めているのは治療方法ではなく、
「痛かったね」
という一言かもしれません。

職場も同じです。
解決する前に、まず受け止める。
私は、この順番がとても大切だと思っています。

若手社員は「もっと感情を話したい」

若手社員向けの研修で、私はこう聞くことがあります。

「職場の人に感謝していることはありますか」
「反対に、嫌だったことはありますか」
すると、さまざまなエピソードが出てきます。

私がお願いするのは一つだけです。
「出来事だけではなく、そのとき自分がどう感じたのかも話してみてください」
急かしません。沈黙しても待ちます。

そして、話してくれた内容に、すぐアドバイスもしません。
すると、多くの人が少しずつ、自分の気持ちを話し始めます。

研修後のアンケートでは、
「もっと話したかった」
という声が出てきます。

私はこれを見るたびに思います。
若い人たちは「話したくない」のではないのかもしれない。
安心して話せる場所があれば、本当はもっと自分の感情を
言葉にしたいのではないか。

問題は「話さない部下」だけにあるのか

「あの部下は何を考えているかわからない」
「最近の若手は本音を言わない」

職場でよく聞く言葉です。
でも、私はここで、問いを少し変えてみたいと思います。

本当に、その人が「話さない人」なのでしょうか。
それとも、その職場が「話せなくなる場所」になってはいないでしょうか。
すぐに答えを求められる。
感情を話すと評価される。
弱音を吐くと否定される。
相談すると、すぐにアドバイスされる。
沈黙すると、不機嫌だと思われる。
そんな経験が積み重なれば、人は少しずつ言葉を失っていきます。

これは、上司個人の「聴き方」だけの問題ではありません。
職場に、弱さや迷い、言葉にならない感情を置いておける余白があるか。
そこまで考える必要があると、私は思います。

ハラスメント研修でも、似たような場面があります。

問題が起きた後、
「なぜ相談しなかったのか」
「なぜもっと早く言わなかったのか」
と問われる。

でも、本当に問うべきなのは、
「なぜ、その人は言えなかったのか」
ではないでしょうか。

相談できる制度があることと、相談できる職場であることは、
同じではありません。
1on1があることと、本音を話せることも、同じではありません。
制度をつくることは大切です。

でも、制度があるだけでは、人は話してくれない。
私は、そこに職場づくりの難しさがあると思っています。

人と組織を映すのは「沈黙」かもしれない

私はこれまで、ハラスメントは「人と組織を映す鏡」だと考えてきました。
今回の番組を見ていて、もう一つ思ったことがあります。
職場の「沈黙」もまた、人と組織を映す鏡なのではないか。

部下が黙ったとき、
「何を考えているのかわからない」
と相手の問題にするのか。

それとも、
「なぜ、この人は今、言葉にできないのだろう」
「私たちの職場は、安心して迷いや感情を出せる場所だろうか」
と、自分たちの側にも問いを向けるのか。

この違いは、とても大きいと思います。

急かさない。
沈黙を待つ。
感情を否定しない。
すぐに解決しようとしない。
そして、言葉になるまでの時間を尊重する。
部下の本音を「引き出す」ことよりも、
本音が出てくるまで待てる職場をつくること。

それが、これからの上司に求められる大切な力ではないでしょうか。

あなたの職場では、誰かが沈黙したとき、その沈黙を待てているでしょうか。
それとも、
「どう思ってる?」
と、知らず知らずのうちに答えを急かしていませんか?

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

#感情
#言葉
#沈黙
#部下指導
#パワハラ

「悪気はなかった」では、痛みは消えない。 ―高校野球の「死球」から考えるパワハラと職場の慣習

「死球」「刺殺」「併殺」。
野球を知っている人なら、ごく当たり前に使ってきた言葉だろう。
その「当たり前」に、宮城県高校野球連盟が問いを投げかけた。

「野球用語を考えてみませんか?」

すぐに言葉を変えよう、禁止しよう、という話ではない。
私が興味を持ったのは、むしろ、この問題提起が生まれた背景だった。

高校野球のグラウンドでは、
「殺せ!」
「刺せ!」
「盗め!」
といった言葉が飛び交うことがあるという。

もちろん、本当に殺したり、刺したり、盗んだりする意味ではない。
言う側にも、おそらく悪気はない。
野球を長くやってきた人なら、「そういうものだ」と聞き流す言葉なのかもしれない。
しかし、初めて野球の現場に来た子どもが聞いたら、どう感じるだろうか。
宮城県高野連が投げかけているのは、まさにそこへの問いである。

「そんな意味で言ったのではない」
「昔からそう言ってきた」
「みんな分かっている」
それで、本当にいいのだろうか。

この記事を読みながら、私は企業のパワハラ問題とよく似ていると感じた。 問題になる言葉の多くは、最初から相手を傷つけようとして発せられているわけではない。

むしろ厄介なのは、言っている本人も、周囲も、それを問題だと思っていないことである。
「昔から普通だった」という言葉の中に、組織の問題が隠れている。

「昔から普通だった」という免罪符

企業研修に伺っていると、繰り返し耳にする言葉がある。

「昔はこれくらい普通だった」
「悪気はなかった」
「この業界では昔からこの言い方だ」

ある職場で問題になる言動が、別の職場では平然と使われている。
その差を生んでいるものの一つが、職場の慣習である。
人は同じ環境に長く身を置けば、その「当たり前」を無自覚に取り込んでいく。
最初は引っかかった言葉も、毎日聞いているうちに違和感が薄れていく。そして自分が上司になったとき、今度はその言葉を発する側に回る。

「自分もそう育てられたから」。
こうして受け継がれていくのは、言葉だけではない。
その奥にある価値観である。

長くいる人ほど、おかしさに気づけない

 これは特定の一社の話ではない。
業種や規模の異なる企業の研修に伺うなかで、私は似たような構図を何度も目にしてきた。
管理職研修で、こんな質問を投げることがある。

「今の職場で、これは言い過ぎだと思う言葉はありますか」
多くの場合、反応は薄い。
特に思い当たらない、という表情が返ってくる。

ところが、同じような問いを若手社員にすると、違った反応が返ってくることがある。

管理職の耳にはもう何も引っかからなくなっている言葉が、若手社員の耳には「なぜ、こんな言い方をするのだろう」と違和感として届いている。

これは、能力や誠実さの差ではない。
むしろ真面目に部下を育てようとしている管理職ほど、自分が慣れ親しんできた言葉や指導の仕方を疑う機会がないこともある。

長く同じ場所にいるということは、それだけで感覚が慣れてしまうことがある。
野球でも、職場でも、それは変わらない。

だからこそ、「そんな意味で言っていない」「悪気はなかった」という説明だけでは十分ではない。
自分がどういうつもりで発したかだけではなく、相手にはどう届いたのか。
そして、その組織の文化を知らない人には、どう見えるのか。
その視点を失ったとき、組織の「当たり前」と社会の「当たり前」は、少しずつずれ始める。

「人」だけを見ても、組織は変わらない

 パワハラが起きると、私たちは本人にばかり目を向ける。

「あの管理職のコミュニケーションが悪い」
「あの人は感情的になりやすい」
もちろん、本人の言動改善は必要である。
だが、それだけで十分だとは、私は考えていない。

なぜその人物は、その言葉を使うようになったのか。
なぜ周囲は止めなかったのか。
上司はそれをどう見ていたのか。
同じような言動が、職場のあちこちで既に起きていなかったか。

さらに言えば、
「結果さえ出せば多少厳しくても構わない」
という価値観を、組織そのものが持っていなかっただろうか。

視点を「人」から「職場」、そして「組織」へ広げれば、パワハラは
個人のコミュニケーション不全だけでは説明できなくなる。
その人の言動を許容し、場合によっては強化してきた職場の空気や
組織の価値観まで見なければ、本当の原因は見えてこない。

ハラスメントとは、人と組織を映す鏡である。
私は、そう考えている。

言葉を変えれば解決するのか

では、「死球」を別の言葉に置き換えれば、問題は解決するのだろうか。
私は、そう単純な話ではないと思う。

「死球」という言葉を変えたところで、野球界の文化そのものが変わる  わけではない。
企業も同じである。

「呼び捨てをやめよう」
「さん付けにしよう」
「乱暴な言葉は禁止しよう」

もちろん、無意味ではない。
言葉を変えることで、人の意識や行動が変わることもある。
しかし、表面の言葉だけを差し替えて、その奥にある価値観が変わらなければ、本質的な問題は残ったままである。

問うべきなのは、「この言葉は禁止」という線引きだけではない。

なぜ私たちは、この言葉を当たり前だと思ってきたのか。
なぜ違和感を持たなくなったのか。
なぜ誰も「それ、おかしくないですか」と言わなかったのか。
そこには、先輩から後輩へ、上司から部下へと受け継がれてきた、
その組織固有の価値観がある。

そして、その「当たり前」の中にこそ、ハラスメントを育てる土壌が潜んでいることがある。

「違和感」は組織を映すセンサーである

 研修の現場で感じるのは、「何を言ってはいけないか」を覚えるだけでは、いずれ限界が来るということだ。
それ以上に重要なのは、自分たちの職場の「当たり前」そのものを疑う姿勢である。

「昔からこうだった」
「みんな我慢してきた」
「この業界では普通だ」
こうした言葉が出たときこそ、一度立ち止まってみる必要があるのではないか。

社会は変わる。
人の価値観も変わる。
そして、そこで働く人も変わっていく。

それなのに職場の常識だけが何十年も止まったままなら、いつか社会との間に大きなずれが生まれる。

私は、ハラスメント防止において、この「ずれ」に気づくことが非常に
重要だと考えている。
問題が表面化してから、
「誰が悪かったのか」
「どの発言がアウトだったのか」
と検証することも必要である。

しかし、その前にできることがある。
職場の中にある小さな違和感を拾うことである。

新しく入ってきた社員が、
「なぜ、こんな言い方をするのだろう」
「なぜ、誰も何も言わないのだろう」
と感じたとき、その感覚を「最近の若者は気にしすぎる」で
片づけてしまわない。
長くいる人には見えなくなったものを、新しく入ってきた人が
見つけている可能性があるからだ。
違和感は、単なる不満ではない。
組織の「当たり前」が社会の感覚とずれ始めていることを
知らせるセンサーにもなり得る。

「当たり前」を疑える組織であるか

 宮城県高野連が投げかけたのは、「死球を禁止しましょう」という単純な話ではない。
公式サイトにもあるように、あくまで「野球用語を考えてみませんか?」という問題提起である。

長く使われてきた言葉を、今の時代の目でもう一度見直してみる。
私は、その姿勢そのものに意味があると思う。

そして、この問いはそのまま企業にも向けることができる。
あなたの職場にも、長くいる人には聞こえなくなった言葉はないだろうか。
「昔から普通だった」という理由だけで、受け継がれてきた慣習はないだろうか。
「自分もそうやって育てられた」という理由で、次の世代にも同じことを求めてはいないだろうか。

新しく入ってきた人の目で、自分たちの職場を見直してみる。
そこで生まれる小さな違和感は、単なる「最近の若者の感覚」
ではないかもしれない。
組織が変わるための、重要なサインかもしれないのである。

パワハラをなくす第一歩は、問題のある人間を探し出すことだけ
ではない。
自分たちが、もはや疑わなくなった「当たり前」に気づくこと。
そこから始まるのではないだろうか。

死球は、投げた側に当てる意図がなくても、当たった側には痛みが残る。
職場の言葉も、同じではないだろうか。

参考・出典

・集英社オンライン「〈『一死』『併殺』『死球』が消える?〉『殺せ』『刺せ』が飛び交う野球界に宮城県高野連が問題提起…『言葉狩り』批判に理事長が語った“真意”」(2026年8月21日)
・宮城県高等学校野球連盟「野球用語を考えてみませんか?」

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
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#高校野球
#当たり前を疑う
#パワハラ



なぜ誰も止められないのか -ラグビーと横浜市役所に見る「NOと言えない組織」

先日、プロラグビー選手の山川力優さんが書いたnoteを読んで、
手が止まった。

タイトルは「なぜラグビーは夏に過酷な練習をやめられないのか
〜『負ける不安』が選手を追い詰める〜」。

同じリーグワンで戦う選手が練習中に熱中症となり、搬送先の病院で亡くなった。その事実を受けて、山川さんが自身の経験と日本ラグビー界の構造について綴った記事である。

その中に、こんな一文があった。

「試合に出たい選手ほど、外されるのが怖くて、言えない。僕も言えませんでした。言えない構造の中に、僕自身がいました。」

「言えない構造」。

この言葉が強く残った。

ラグビーだけの話ではない。
会社のパワーハラスメントも、企業不正も、重大事故も、
よく似た構図の上で起きることがある。

問題が起きたあと、私たちはつい言う。

「なぜもっと早く言わなかったのか」
「なぜ相談しなかったのか」
「なぜ止めなかったのか」

だが、本当に問うべきはそこではない。

「なぜ言わなかったのか」ではない。
「なぜ言えなかったのか」だ。

「わかっている」のに、なぜ止まらないのか

山川選手は熱中症対策について、こう書いている。

「熱中症の対策なんて、現場のみんなが『わかってる』んです。
わかっているのに、それでも事故は起きる。ということは、
これは知識の問題やなくて、構造の問題です。」

この指摘は、ハラスメント防止にもそのまま当てはまる。
多くの企業が毎年のようにハラスメント研修を実施している。
人格を否定してはいけない。
感情的に怒鳴ってはいけない。
部下の話を聴く。
困ったら相談窓口を利用する。
管理職の多くは、もうすでに知っている。
それでも、ハラスメントは起きる。
だとすれば、知識不足だけの問題ではない。

知っていても、その通りに行動できなくなる「何か」が、
組織の中に潜んでいる。
私は、そこを見なければならないと思っている。

「負ける不安」と「数字を落とす不安」

なぜ指導者は危険な練習を止められないのか。
山川選手はこう考えている。
「原因は、指導者個人の問題やなくて、『負けたら後がない』
という強烈な不安にあると思っています。」
相手チームがやっているかもしれない練習を、自分たちだけやめる。
それは指導者にとっても怖い。

企業組織と、驚くほど似た構図がここにある。

「今期の数字を落とせない」
「この目標は絶対だ」
「競合はもっとやっている」
「自分だけ未達では終われない」
その不安を抱えた管理職が、自分のところで圧力を止められず、
さらに下へ流してしまう。

「もう少し頑張れ」
「今月だけだから」
「みんなやっている」
その「もう少し」の蓄積の先に、長時間労働があり、
心身の不調があり、ハラスメントが生まれることがある。

そして、同じ構造は企業不正にもつながる。
利益を出さなければならない。
数字を達成しなければならない。
納期を守らなければならない。

プレッシャーが極端に強まれば、
「これくらいなら」
「今回だけなら」
という判断が積み重なり、ルール違反や隠蔽へ流れていくことがある。
私は、ハラスメントと企業不正はまったく別の問題ではないと
考えている。

「数字や結果への過剰なプレッシャー」という同じ土壌から
生まれることがある。 だから、ハラスメントという現象だけを
見ていても、その組織が抱えている本当の問題は見えてこない。

横浜市役所にもあった「NOと言えない構造」

このnoteを読みながら、横浜市が公表した、市長の言動に関する
第三者調査報告書を思い出した。

報告書で私が注目したのは、市長の個々の言動だけではない。
上位者の意向に沿わなければ人事上の不利益を受けるのではないか
という懸念、職員の萎縮、そして本来であれば働くべき組織内部の抑止
や牽制が十分に機能しなかったという点である。

つまり、問われているのは「誰が何を言ったか」だけではない。
なぜ、周囲は止められなかったのか。
ここに組織の問題がある。

ラグビーと市役所。
接点などないはずの二つの世界である。
だが、そこには共通する構造がある。
上の人に異論を言えば、自分の立場が危うくなるかもしれない。
評価に響くかもしれない。
試合に出られなくなるかもしれない。
異動させられるかもしれない。
そう感じれば、人は次第に黙る。

そして怖いのは、その沈黙が一人で終わらず、組織全体へ
広がっていくことだ。
パワーハラスメントを「問題のある上司」の話だけで終わらせれば、
この構造を見落とす。
その上司自身は、その上にNOと言えているのか。
その幹部は、トップにNOと言えているのか。

不安を抱えた人間が、その不安をさらに立場の弱い人間へ流す。
ここに、ハラスメントが連鎖する理由の一つがある。

心理的安全性は、数字の前で機能するのか

企業では最近、「心理的安全性」という言葉がよく使われる。

「何でも言ってください」
「異論を歓迎します」
「困ったら相談してください」
もちろん大切である。

だが、その一方で、
「数字は絶対達成しろ」
「失敗は許されない」
「未達なら評価を下げる」
というメッセージが流れていたら、人はどちらを信じるだろうか。

私は、組織の本当の価値観は、掲げる言葉には現れないと思っている。
何かと何かが衝突したとき、どちらを優先するのか。
そこに現れる。

人の安全と数字がぶつかったとき。
コンプライアンスと利益がぶつかったとき。
部下の健康と納期がぶつかったとき。
組織はどちらを選ぶのか。
社員は、その判断を見ている。
「人を大切にする」と書かれた理念よりも、数字と人がぶつかった
瞬間に経営が何を選んだのかを見ている。

そこで数字ばかりが優先されれば、「何でも言ってください」
と言われても、社員は本当のメッセージを理解する。

結局、数字の方が大事なのだ、と。

心理的安全性は、制度やスローガンだけではつくれない。
評価や処遇、そして経営の判断まで含めて、「本当に言っても大丈夫だ」と感じられる環境がなければ、絵に描いた餅で終わる。

「上が止める」しかない

山川選手の記事で、最も考えさせられた言葉の一つがある。
「上が『止める』しかない」
現場の指導者が「他チームはやっているのに、自分たちだけ止めたら
負ける」と不安を抱くなら、現場だけに判断を委ねてはいけない。
全チームに共通するルールをつくり、一定の条件になれば必ず止める。
重要なのは、そのルールが指導者を処罰するためだけのものではないということだ。

むしろ、指導者自身を「止めたくても止められない状況」から守るための仕組みでもある。

これは企業のガバナンスにも通じる。
「現場で適切に判断してください」
「コンプライアンスを守りながら数字も達成してください」
それだけでは足りない。

現場には利害がある。
評価がある。
競争がある。
だからこそ、組織として、
「ここから先はやってはいけない」
という線を引く必要がある。

良いルールとは、人を縛るだけのものではない。
正しい判断をしたい人間が、正しい判断をできるように守るものだ。
「死ぬために練習しているんじゃない」
そして、山川選手の記事には、私の胸に強く刺さった言葉が
もう一つあった。

「熱中症で死んだら、プロとか関係ない。
僕らは強くなるために練習しているのであって、死ぬために
練習しているんじゃない」

この言葉を読んだとき、私は仕事もまったく同じではないかと思った。

私たちは成果を出すために働いている。
会社を成長させるために働いている。
プロとして責任を果たすために働いている。
しかし、心身を壊すために働いているのではない。
まして、死ぬために働いているのではない。

「プロなんだから」
「管理職なんだから」
「給料をもらっているんだから」
「それくらいのプレッシャーには耐えるべきだ」
そんな言葉が、人の限界を見えなくさせることがある。

上司からのパワーハラスメントによって人が追い詰められ、
命まで失うことになったら、プロかどうかなど関係ない。
成果を出すことと、人の命や健康を犠牲にすることは、
まったく別の話である。

「メンタル」という言葉で、人の苦しみを軽くしていないか

私は、「メンタル」という言葉があまりにも簡単に使われていることにも違和感がある。
「メンタルが弱い」
「もっとメンタルを鍛えた方がいい」
「心の風邪みたいなものだから」
そんな言葉を耳にすることがある。
しかし、人の心が壊れていく苦しさを、そんな簡単な言葉で
片づけていいのだろうか。
私は時々思う。
メンタルの疾患を軽く見るのなら、その苦しさを経験してから言
ってほしい、と。
もちろん、同じ経験をしなければ人の苦しみを理解できない、
と言いたいのではない。

人は、他人の痛みを完全に経験することなどできない。
だからこそ必要なのが、想像することなのだと思う。
私はそこに、「同悲同喜」という言葉を重ねたい。
人の悲しみを自分の悲しみとして感じ、人の喜びを自分の喜び
として感じる。
同じ痛みを経験していなくても、その人が何を感じ、どれほど
苦しんでいるのかを想像しようとすることはできる。

職場に必要なのは、「もっと強くなれ」と突き放す人ではなく、
「この人はいま、どれほど苦しいのだろう」
と想像できる人ではないだろうか。
そんな想いを持てる人が、上司にも、同僚にも、そして経営者にも、
もっと増えてほしいと思う。

「本人の自己管理」で片づけてはいけない

山川選手は、もし自分が最悪の結果になっていたら、
「走り込みが足りなかったんじゃないか」
「体調が悪いなら申告すればよかった」
「自己管理ができていなかったんじゃないか」
と言われたかもしれない、と書く。

そして、こう続ける。
「僕は、言えなかっただけです。」

この一文は重い。

企業でも同じことが起きる。
「つらかったなら早く相談すればよかった」
「無理なら断ればよかった」
「自分で体調管理すべきだった」
しかし、言えない職場をつくっておいて、問題が起きたあとで
本人の自己責任へ差し戻す。
それでは何も変わらない。

むしろ、次に同じ状況になった人もまた言えなくなる。
「NOと言えなかった人」に勇気がなかったのではない。
「NOと言ったら何かを失う」と感じさせる組織だったのではないか。
そこを問わなければならない。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である

私は、ハラスメントとは、人と組織を映す鏡だと思っている。
誰かが強い言葉を使った。
部下を追い込んだ。
その行為だけを切り取れば、「問題のある上司」という結論で終わる。
もちろん、行為者の責任がなくなるわけではない。
しかし、そこで思考を止めてはいけない。
その背後には何があったのか。

過剰な目標。
評価への不安。
失敗を許さない空気。
「みんなやっている」という同調圧力。
上に異論を言えない関係。
そして、人よりも数字と結果を優先する組織の価値観。
そこまで見て初めて、なぜその職場でハラスメントが起きたのかが
見えてくる。

ラグビーのグラウンドで「休ませてください」と言えなかった選手。
市役所で上位者に異論を言えなかった職員。
会社で上司に「それは無理です」と言えない部下。
舞台はまったく異なる。
だが、突きつけてくる問いは同じだ。

あなたの会社では、部下は上司に「NO」と言えるだろうか。
そして、
その上司は、さらに上の人間に「NO」と言えるだろうか。
経営幹部は、トップに「それは違う」と言えるだろうか。

もし、誰もNOと言えない組織だとしたら。
その組織で本当に守られているのは何だろう。
人なのか。
それとも、
数字なのか。

「強くなるために練習しているのであって、
死ぬために練習しているんじゃない」

この言葉を、私は働く世界にも置き換えて考えたい。
私たちは、成果を出すために働いている。
成長するために働いている。
誰かの役に立つために働いている。
心身を壊すために働いているのではない。
まして、死ぬために働いているのではない。

そして最後に、もう一度問い直したい。

「NO」と言えないのは、本当にその人の勇気の問題
なのだろうか。

それとも、

「NO」と言わせない組織の問題なのだろうか。

引用出典
・yamakawa_ rikyu(山川力優 氏)
「なぜラグビーは夏に過酷な練習をやめられないのか〜『負ける不安』が選手を追い詰める〜」note (2026年8月15日)
・横浜市「横浜市長の言動にかかる第三者による調査 調査報告書」(2026年7月30日)

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、 
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
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よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
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そんな思いで、このブログを書いています。

#ラクビー
#横浜市役所
#NOと言えない組織
#ハラスメント

「どっちが正しいんだよ問題」とどう向き合うか ― 真逆の価値観がぶつかる職場でうまくやる考え方とは ―

会社という場所は、価値観の見本市である。

プロジェクトが行き詰まったとき、「やればできる。最後まで諦めるな」と背中を押す上司がいる。
その隣で、「無理なものは無理。現実を見よう」と冷静に言う上司もいる。
どちらの言い分も、聞けば頷ける。
だからこそ、部下は心の中でこう呟くことになる。
「で、どっちなんだよ」と。

今日はこの、職場という舞台で毎日のように起きている「どっちが正しいんだよ問題」を考えるうえで、なかなか面白い一冊を紹介したい。

ペズル著『どっちもある名言集』(ライツ社)。

この本の仕掛けは単純にして意地が悪い。
一つのテーマに対して、まったく逆のことを言っている名言を、平然と並べてくるのである。
読み進めるうちに、「正しい答えは一つではない」という、わかりきっているのに日々忘れられていく事実を、こちらの胸ぐらを掴んで思い出させてくる。
私はこの本を、単なる名言集としてではなく、職場で起きる価値観の衝突を読み解くための鏡として読んだ。
存外、使い出のある一冊だった。

「できる」と「できない」は、どちらも正しい

「やればできる」という思想がある。
ネルソン・マンデラの、何事も達成するまでは不可能に見える、という言葉に通じるものだ。
一方、太宰治には「出来ない事は、出来ないと言おう」という言葉がある。
前者は可能性を信じ、後者は現実を直視する。
どちらか一方が正しく、もう一方が間違っている、というほど話は単純にできていない。

問われるべきは「どちらが正しいか」ではなく、「いま、この状況ではどちらが必要なのか」である。
この違いに気づけるかどうかが、たぶん分水嶺になる。

「未来を見るか」「現実を見るか」

同じ構図は、未来をめぐる議論にも現れる。
ヘレン・ケラーは未来への夢を語り、ピーター・ドラッカーは現実から出発することの重要性を説いた。
夢だけを見ていては、仕事は一歩も進まない。
かといって、現実ばかりを見つめていては、新しい挑戦など生まれようがない。

組織には、未来を見る人間が必要である。
同時に、足元の現実を見る人間も必要である。
問題は、考え方が違うことではない。
自分とは違う考え方を、さっさと「間違っている」と決めつけてしまう、その手早さのほうである。

仕事は「好き」で選ぶのか、「嫌い」でもやるのか

仕事についても、真逆の思想が平然と同居している。
「好きなことで失敗したほうがいい」という考え方がある一方で、「やりたくない仕事こそ自分を磨く」という考え方もある。

若い頃には前者に共感していたのに、管理職になった途端、後者の意味が骨身に染みてわかる、ということもある。
あるいは同じ人間でも、置かれた状況次第で考え方はあっさり変わる。
つまり、私たちが「正しい」と信じているものの多くは、実のところ、その人の立場・経験・成功体験・置かれた状況が勝手に組み立てたものにすぎない。正しさというより、境遇の産物である。

なぜ、職場では「正しさ」がぶつかるのか

この本を職場という補助線で読むと、面白さの正体が見えてくる。
職場で対立が起きるとき、そこにいるのは必ずしも「正しい人」と「間違っている人」ではない。

むしろ、「自分なりの正しさ」と「相手なりの正しさ」が、ただ静かにぶつかり合っているだけ、というケースのほうが圧倒的に多いのではないか。

上司には上司の正しさがあり、部下には部下の正しさがある。
営業には営業の正しさがあり、管理部門には管理部門の正しさがある。
経営には経営の事情があり、現場には現場の事情がある。

ところが人は、自分の立場からしか世界を見られない生き物である。
そのため、いつの間にか「普通はこうするだろう」「社会人ならわかるだろう」「そんな考え方ではダメだ」と、自分の基準を「世の中の基準」に静かにすり替えてしまう。
人間関係の摩擦は、たいていこの瞬間に始まる。

ハラスメントも「自分が正しい」から始まることがある

ハラスメント研修の現場で、私は長くこの問題と向き合ってきた。
もちろん、すべてのハラスメントが価値観の違いから起きるわけではない。

しかし背景を辿っていくと、加害側に「自分は正しいことをしている」という認識があるケースは、決して少なくない。

「部下を成長させるために厳しくしている」
「これくらい、自分たちの時代は当たり前だった」
「本人のためを思って言っている」
「仕事なのだから、これくらいやって当然だ」

本人の中では、筋が通っているのである。
だからこそ厄介なのだ。

自分が間違っていると思っている人よりも、「自分は正しい」と確信している人のほうが、自分とは違う価値観に気づきにくい。皮肉なもので、確信の強さと視野の狭さは、しばしば比例する。
そして、立場や権限を持つ者の「正しさ」が肥大化すればするほど、相手は反論する余地を失っていく。

問題は「価値観が違うこと」ではない。
一つの価値観だけが絶対的な正解になり、ほかの価値観が声を上げられなくなること、それこそが問題なのである。

職場に「どっちもある」があるか

ここで視点を、個人から職場や組織へと広げてみたい。
「違う意見もあるよね」と言える職場だろうか。
上司と違う意見を口にしたとき、ちゃんと聞いてもらえるだろうか。
「私はそうは思いません」と言った人間が、面倒な人として扱われてはいないだろうか。

経営の方針に対して、現場から「それは無理です」と言えるだろうか。
もし、一つの「正しさ」しか許されない組織になっているとしたら、
問題は個人のコミュニケーション能力などという小さな話では済まない。
そこには上司と部下の力関係、職場の空気、心理的安全性、組織文化、そして経営が何を大切にしているのか、という根の深い問題まで絡んでくる。

ハラスメントは、人と組織を映す鏡である。
一人の問題行動だけを見るのではなく、「なぜ、この職場では一つの正しさだけが強くなったのか」まで踏み込んで考える必要がある、と私は思っている。

自分の中に「与党と野党」を持つ

『どっちもある名言集』の「おわりに」に、印象的な一文がある。
この本で大切なのは、深く共感した名言よりも、その隣にある逆視点の名言のほうだ、というのである。
私はこの考え方が、わりと好きだ。

人はどうしても、自分の考えを支持してくれる情報ばかりを集めたくなる生き物である。
だからこそ必要なのが、自分の中に「与党と野党」を飼っておくことだ。

「自分はこう思う。でも、逆から見たらどうだろう」
「部下から見たら、この指示はどう見えるだろう」
「自分の成功体験は、本当に今の時代にも通用するのだろうか」
「自分が間違っている可能性はないだろうか」

こうした小さな問いを自分の中に持つだけで、相手との関わり方は変わる。 私は、白洲次郎の「半分の人間に嫌われるくらいの仕事をするべき」という考え方にも共感する。

しかし、それに共感する自分がいるからこそ、反対側の考え方にも目を向けておきたい。
それが、この本を読んで改めて感じたことである。

「どっちが正しい?」から「なぜ、そう考える?」へ

職場で意見が対立したとき、私たちはつい「どちらが正しいのか」を決めたくなる。
しかし本当に必要なのは、勝ち負けを決めることではないのかもしれない。

「なぜ、あなたはそう考えるのか」
「なぜ、私はこう考えているのか」

そこに目を向けることである。

相手の価値観を理解することは、相手に同意することではない。
違う考えを持ったままでも構わない。
それでも、相手には相手なりの背景がある、と考えることはできる。
その余白がある職場では、意見の違いは「対立」ではなく「対話」になる。逆に、その余白が消えたとき、「自分の正しさ」が相手を追い詰める凶器に変わる。

今回紹介した『どっちもある名言集』。
ぜひ「おわりに」を読んだあと、もう一度最初からページをめくってみてほしい。
今度は、自分が共感する言葉ではなく、「自分なら選ばないほうの言葉」に注目してみる。
それは、自分とは異なる価値観を理解し、物事を一歩引いて見るための、地味だが効くトレーニングになる。

そして最後に、自分の職場について考えてみてほしい。

私たちの職場には、「どっちもある」と言える余白が、はたしてあるだろうか。

この記事を書いた人

藤山晴久
株式会社インプレッション・ラーニング 代表取締役
研修プランナー/講師/産業カウンセラー

「人を追い詰めるのは、個人だけではない。」

20代の終わり、まだ駆け出しだった頃、ある取引先の経営者と昼食をともにする機会があった。60代、場数を踏んだ経営者と対等に渡り合うにはまだ早すぎる年齢だったが、その方は若輩者の自分に、惜しみなく時間を割いてくれた。その方が、昼食からいくらも経たないうちに、この世を去った。自分はその事実を、伝聞という形でしか知ることができなかった。「昨日まで隣にいた人が、今日はいない」―その事実は、今も胸に残っている。
その後、自身も深夜に及ぶ過酷な労働環境と、さまざまな立場の人間関係の中で受けた本格的なハラスメントの果てに、心身の均衡を崩した時期がある。ちょうどその頃、組織の整理に伴い、職を離れることにもなった。
この二つの経験を原点に、ハラスメントを個人の資質の問題ではなく、組織風土・ガバナンス・リスクマネジメントの視点から分析し、研修として提供している。

立教大学卒。アンダーセンビジネススクール、KPMGあずさビジネススクールにて法人研修の企画営業マネージャーとして、一部上場企業を中心にコンプライアンス研修・ハラスメント研修を企画。2009年、株式会社インプレッション・ラーニングを設立。企業研修プランナーとして、管理職向けハラスメント研修を中心に活動し、研修講師としても登壇。年間約400件の研修を企画・実施し、これまで数十万人規模が受講。

最後までお読みいただきありがとうございました。

ハラスメントは、特定の個人だけの問題ではありません。
社会の変化、世代間の違い、そして組織の文化の中で生まれるものです。 このブログでは、社会・組織・個人という三つの視点から、
ハラスメントの背景や構造について考えています。
職場には、「わかっているはず」という思い込みや、
言葉にしなくても伝わるはずだという空気があります。
しかし、ときにそれは人を追い詰める
「以心伝心の暴力」 になることもあります。
このブログでは、そんな職場にある“見えにくいズレ”をほどきながら、
よりよい対話と関係を生み出すヒントを発信していきます。
職場の「わかっているはず」を、言葉に変える。
そんな思いで、このブログを書いています。

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